沖縄からふるさと福島へ 元自衛官たちの支援
県土の1割を米軍基地が占める沖縄で、自衛隊員といえばマイナーな存在だ。沖縄戦の記憶ゆえか昔は県民に受け入れてもらえない側面もあり、沖縄に赴任した自衛隊員は違和感に苦労したという。しかし中には退官後も沖縄に根付き、溶け込んだ自衛官もいる。東日本大震災は、そんな元自衛官たちの胸をざわつかせた。特に東北出身者にとっては居ても立ってもいられない思いだった。震災後、避難する人々に親身になって相談に乗ってきた木村貞夫さん(68)と、ヒマワリを通じた沖縄と福島の交流や、福島へのツアーを続ける鈴木伸章さん(69)。長年暮らす沖縄と、生まれ育った福島をつなぐ2人の元自衛官に話を聞いた。
木村さん。電気技術者として航空自衛隊に
沖縄福島県人会の会長を務める木村貞夫さんは、「飢饉の時、会津(福島県)のコメが沖縄に送られた」というエピソードで福島と沖縄の縁を話す。明治初期、沖縄には米沢藩(山形県)から上杉茂憲が県令として派遣されていた。沖縄の人を救うため、上杉が会津のコメを送る決断をしたのだという。
福島県の旧・白沢村(現在の本宮市)で生まれた木村さんは、航空自衛隊員として赴任し、30年以上沖縄に住んでいる。 那覇市内の旧小禄村、元は米軍関係者の住宅が広がり、返還後にアパートなどが立ち並ぶようになった住宅街に木村さんは暮らす。180センチの長身で長い脚を組み、手振りを添えながら、ひょうひょうと語る。 旧白沢村は奥羽山脈の中、標高約1700メートルの安達太良(あだたら)山のふもとにある。「田んぼと畑しかないさ。おコメ、果物もリンゴ、モモ。野菜全般はなんでもある」ところだ。時折、語尾が沖縄風になまる。 福島県立二本松工業高校を卒業後、「田舎だから仕事がないんだよ。早く決まったから」と電気技術者として航空自衛隊に入隊した。
「宮古島はいいところだ」
航空教育隊や術科学校、三重での勤務を経て1977年3月、沖縄・宮古島の航空自衛隊分屯基地に配属された。 上空から「ススキだらけの荒れた土地」に見えた宮古島は、サトウキビの白い花穂が一面に咲いていた。周りを囲むサンゴ礁には豊かな海の幸があった。 沖縄は自衛隊への風当たりが強く、宮古島も例外ではなかった。 基地内の電話線工事をやってくれなかったり、通話途中で交換手に電話を切られてしまう。自衛官は成人式に参加できず、基地のゲートにデモ隊が押し寄せることもあった。 「旧日本軍とイメージがかぶっとるんや」 「普通の場所に、制服の自衛隊員が来てほしくなかったんかな」 地元女性と結婚、転勤した隊員に腹を立てたタクシー運転手に「男200人連れてくるなら、女も一緒に連れてこい」と怒られたこともある。 しかし「多くの人はあまり(自衛隊に)反対していなかった」と明かす。 すぐに島の住人たちと仲良くなった。一緒に釣りに出掛け、島を囲むサンゴ礁の上を歩いてタコや貝を取った。「貝があるから酒の肴にも困らない」とうれしそうに笑う。