小学三年生のときにクラスで「名指しの批判」を受け、糾弾の嵐にさらされた…つらい記憶だが、「よい経験だった」と言えるワケ
遊びの意義と重要性
遊びにはルールがあり、それに従う者だけが参加できます。 子どもたちは遊びの中でそれぞれの役割を演じますが、それは仲間から承認されたものでなければなりません。ルールをよく知っている者はリーダーとなって遊びを仕切り、上手な者、強い者は手本やヒーローになります。うまくできない者や弱い者は、よい結果を出せるよう努力したり、工夫したりして成長していきます。 遊びがうまくいくと、子どもたちは喜びや楽しさを見出し、精神の健康を高めます。うまくいかなくても、関係が良好であれば、互いに許し合う「許容」、不足を補う「支援」、リーダーを交替する「代理」などが行われます。 関係が不良な場合は、特定のメンバーに対する「攻撃」、だれかに責任を押しつける「非難」、仲間から追い出す「排斥」がはじまります。 学童期の子どもは遊びを通じて友だちから学び、自分の気持ちを伝え、他人を思いやるなどして、倫理感と道徳感情などを習得していきます。 しかし、子どもの成長過程にはバラつきがあるので、だれもが似たような状態で進歩するわけではありません。
私が経験した糾弾
小学一年生になった私は、環境の変化に緊張していましたが、そのうちにみんなに受け入れられたと感じて、元気を取りもどしました。得意なことがあったわけではありませんが、陽気でおしゃべりなお調子者で、授業中もよく騒いで先生に叱られました。 小学三年生のとき、休み時間にみんなでドッジボールをしていて、何を思ったか、私はボールを抱えてラグビーのようにコートを走りまわりました。ルール無視もいいところですが、それを新しい遊びのように感じて、まわりが止めるのも聞かず、ふざけ続けていました。みんなは怒っていたようですが、私はそれに気づかず、楽しければいいというふうに思っていました。 休み時間が終わったあと、ある児童が私のルール無視を先生に訴えました。 「久家くん(私の本名)はいつも勝手なことをする」と、名指しで批判したのです。私は何のことかわからず、キョトンとしていました。担任の先生は授業をやめて、「ほかの人はどう思いますか」と、クラスの全員に訊ねました。するとあちこちから非難の声があがり、私は立たされて、糾弾の嵐に巻き込まれたのです。 言われていることは、心当たりのあることでしたが、私としては単なる悪ふざけで、友だちを不快にさせているとはついぞ思っていませんでした。糾弾の声は次第に憎悪に変わり、私は恐怖と情けなさで泣きだしてしまいました。 驚いたことに、それまで私に従属的だった友だちが、私を指さして身に覚えのない悪事を言い募りました。「そんなことはしてません」と言いたかったのですが、しゃくり上げるように泣いていたので、言葉になりませんでした。 先生は私の意見も聞こうとしてくれましたが、やはり何も言えず、それで「久家くんも反省しているようだから」と、この糾弾会の幕を引いてくれました。 私を弁護してくれる友だちは一人もいませんでした。仲がいいと思っていた友だちも、全員が糾弾する側にまわったことが、私にはショックでした。 糾弾会のあとは、またもとの関係にもどりましたが、それからは周囲に気遣うようになりました。つらい記憶ですが、その意味ではよい経験だったと思います。 さらに連載記事<じつは「65歳以上高齢者」の「6~7人に一人」が「うつ」になっているという「衝撃的な事実」>では、高齢者がうつになりやすい理由と、その症状について詳しく解説しています。
久坂部 羊(医師・作家)