幻に終わった“共和国” 伊豆大島がつくろうとした憲法とは?
日本国憲法は1947(昭和22)年5月3日に施行されました。それを記念して、5月3日は祝日に制定されています。いま憲法改正が話題になる機会は増えました。今夏の参議院選では憲法改正も争点の一つといわれています。 【写真】<憲法記念日>日本国憲法には“誤植”がある? 日本の戦後史を紐解くと、実は東京都の一部である伊豆諸島の大島で日本国憲法とは別の憲法を制定する動きがありました。なぜ、大島は独自の憲法をつくろうとしたのでしょうか?
GHQが大島の日本からの分離を指示
東京湾の玄関口である竹芝客船ターミナル(港区)からジェット船で約2時間。伊豆諸島最大の大島は、120キロメートルほど離れています。人口は約8300人。そんな小さな島が独自の憲法を制定しようとしたのは、1946(昭和21)年のことでした。 敗戦直後、実質的に日本を統治していたGHQは、大島を日本から分離することを指示します。その理由は判然としていませんが、前触れもなく大島は日本から切り離されることになったのです。 降って沸いた話に、大島は混乱します。現在、大島は一島一町で構成されていますが、当時の島には6つの村がありました。6つの村の有力者たちが集まり、大島の今後について話し合われたのです。 その話し合いで、最初に出てきたのは憲法を制定することでした。国として大島が独立するのですから、当然と言えば当然の流れですが、敗戦直後の大変な時期です。そんな大変な時期に日本からの独立を促されただけでも頭が真っ白になって何も考えられないはずですが、大島の有力者たちは「独立するのだから、まず憲法を制定しなければ」とすぐに決断を下しました。
独立が浮上しすぐに「憲法策定」に動く
なぜ、すぐに憲法をつくろうと考えることができたのでしょうか? 大島町教育委員会で文化財保護審議会委員を務める岩崎薫さんは、こう推測します。 「戦争に負けた直後ですから、島民は明日の生活で精一杯。とても独立を話し合うような状況ではなかったと思います。それでもGHQから指示されて、強制的に独立しなければならない。そうした事態に直面し、すぐに憲法制定に動いたのは柳瀬善之助の影響が大きかったと思います。柳瀬は戦前期に島で新聞を発行し、政治や社会に対する意識はかなり高かく、柳瀬は大島で一番人口の多かった元村の村長を務めていました。独立話が出てきたときに、すぐ憲法を制定しなければならないと考えたのは、常日頃から柳瀬がそうしたことを意識していたからでしょう」 柳瀬村長を中心に憲法づくりは急ピッチで進められました。わずかな作業日数で、前文である“大島大誓言”が起草され、島民主権や平和主義を盛り込んだ3章21条からなる“大島共和国”の憲法にあたる“大島憲章”がつくられていったのです。