幻に終わった“共和国” 伊豆大島がつくろうとした憲法とは?
歴史の闇に埋もれた“大島共和国”
伊豆諸島には大島のほかにも、いくつかの有人島があります。また、GHQは小笠原諸島の行政権を停止させ、サンフランシスコ講和条約の締結後もアメリカの占領下においていました。大島が独立するときに、伊豆諸島や小笠原諸島など、ほかの島と一緒に独立しようという話はなかったのでしょうか? 「柳瀬は全島組織である島民会をつくるなど、大島独立に向けて、奔走しています。しかし、伊豆諸島のほかの島や小笠原諸島までといった話はなく、ほかの島に声をかけたといった記録もありません。戦後の混乱期ですから、まず大島の6か村をまとめようと考えたのでしょう。また、地理的には伊豆諸島としてくくられる八丈島や三宅島などは、今でこそ簡単に船で行き来できますが、当時は島それぞれが独自に生活をしていました。島ごとに独自の文化や風習があり、だから一緒に独立という話にはならなかったのではないでしょうか」(岩崎さん) 着々と憲法の制定作業が進められ、島民による新しい国づくりを目指しました。有力者たちの間でも独立の機運も日に日には高まっていきましたが、そこで事態は急展開します。大島の独立を強制的に指示したGHQが、それらをすべて撤回したのです。 GHQが翻意した理由は定かではありません。政府や東京都の関係者たちによる「大島を日本から切り離さないように働きかけた」といった証言は歴史書にも残されていますが、実際にGHQが政府や東京都のアドバイスをどこまで聞き入れたのかは謎のままです。 とにかく、GHQが大島の独立を白紙に戻しました。大島の独立のために憲法制定に動いていた有力者たちも、心のどこかで「できるなら、日本のままでいたい」と思っていました。だから、大島独立の話が幻に終わると、大島の関係者たちも胸をなでおろしたのです。こうして“大島共和国”は、わずか53日間で終わりを見たのです。 その後、大島の独立話は蓋をされて、歴史の闇に葬られます。島民の記憶からも、大島憲章や大島共和国は忘れられた存在になりました。