<独占告白>明日引退試合のロッテ井口資仁に聞く。「もし僕が監督なら」
――42歳まで、日米で21年間も、なぜ一線でできたのですか? 「体が生まれつき強かった。親へ感謝したいですね。後は、自分でこれをやりたい、あれをやりたい、と常に目標設定を持ち、いろんなことにチャレンジしてきたことでしょうか。アメリカにも行き、毎年、あれやろう、これやろうと新しく追い求めるものがありました。それをしっかり実戦してきたから続けてこれたのだと」 井口は常に目的意識を持っていた。毎試合、野球ノートをつけ、カレンダーに目標となる印をつけながらプレーしてきた。 入団4年目に盗塁王に照準を定め、ショートから二塁へコンバート、そして2005年からメジャーに挑戦、ホワイトソックスでレギュラーを獲得して、いきなりワールドシリーズ出場を果たし“世界一”となった。メジャーでは、フィリーズ、パドレスで4年間プレーして2009年からロッテに凱旋帰国。翌年に“下克上日本一”に貢献。2013年には、史上5人目となる日米通算2000本安打を達成した。 ――野球ノートをずっと書かれてきたとか。 「一番、読み返しているのは、我慢という言葉です。“ボール球を振るな、低めは振るな、欲を出すな”。そういう言葉がノートに凄く書かれています。ホークスの2000年くらいですかね。そういうことを書いたのは」 ――2000年は青学から当時のダイエーに入団し4年目。肩のケガで結果を残せなかったシーズンでした。翌年、30本、44盗塁で、盗塁王、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を総なめにしました。 「金森さん(栄治・打撃コーチ、現ノースアジア大コーチ)に、色々と教えてもらった言葉を書くようになりました。『とにかく我慢しろ! 四球はヒットと同じだからボールを選び出塁率を上げるんだ。そうなると塁に出て盗塁も増える。打ちたい、打ちたいばかりじゃ打率は上がらないぞ』と言われていました。それを胸に刻むと四球が取れて打率も上がりました。盗塁も増えたんです。基本、打てないバッターは、ストライクを見逃してボール球を振るんです。その見極めができて、4打席にひとつ四球を選び、1本のヒットで、打率・333です。例えば、ダルビッシュ有と対戦するときは、欲を出さず、4打席のうちヒットは1本でいいと割り切って四球を取るんです。全部を追わず、この1打席、勝負どころにかける。その気持ちで対戦していました」 ――井口さんは、メジャーを経験されてから肉体がマッチョ化されました。ロッテに凱旋してからもフィジカルトレーニングは欠かさなかったと。 「アメリカに行ってからパワー不足を痛感しました。メジャーでは試合前の練習メニューにしっかりとウエイトの時間が入っていて、それで体が大きくなったんです。マッチョ系のコーチでね(笑)。でも、ここ1、2年は、止めたり休んだりです。僕は、いざ追い込みすぎると、とことん入っちゃうんです(笑)。体が動かなくくらいまでやっちゃうので」 ――プロ野球選手のマッチョ化に賛否はあります。 「僕はウエイトトレーニングをやった後に、しっかりと野球の練習をやれば、それは野球の筋肉に変わるという考え方なんです。キャンプではアーリーワークでウエイトをやり、その後に野球の技術練習をすれば、野球の筋肉に変わります。ただ、逆に、試合後や練習後にやってウエイトの動きで一日が終わるのはまずい。その時間は避けていました」 ――メジャーを経験されてパワーバッティングに変貌を遂げられたように見えました。バッティングの基本はパワーですか? 「いえ、タイミングですね。力がなくともタイミングが合えば打てます。力じゃないんです。右打ちが僕の代名詞のように言われますが、元々、中高校の頃から右へ打っていました。球場が大きくなってプロでは引っ張らないとスタンドに入らない。デビュー戦(1997年5月3日の近鉄戦・山崎慎太郎から)で満塁本塁打を打って勘違いして引っ張るようになってダメになったんです。そこを戻してくれたのが、金森さんです。元々、右へ打つ力はあったんです。タイミングが取れていないと自分のスイングはできません。ピッチャーは、そのタイミングを崩すために変化をつけてきます。バッティング練習のつもりで打てれば結果につながります」