日産野球部“休部”から7年 「離れても心は一つ」消えない復活への思い
都市対抗野球で2度の優勝を果たすなど、名門として知られた日産自動車野球部。経営不振のあおりを受け、2009年2月に休部が発表されてから7年が経ちました。現在は年に4回、事業所近くの野球チームや従業員の家族を招待し、野球教室を行っています。元部員たちのその後と、野球への思いとは――? 【写真】「プロへの夢」破れた野球部大学生、それぞれの決断
不動の4番、休部決定「ついに来たか」
「日産自動車不動の4番バッター」と呼ばれ、日本代表としても活躍した小山豪さん(41)は、休部を伝えられた当日の様子をこう話します。 「グラウンドに出てウォーミングアップをしていたら全員寮に戻され、休部が伝えられました。その後、練習がなくなり野球部員はしばらく誰も寮の部屋から出てきませんでした」 ベテラン選手の中には、会社の状況から休部を察していた人もいたといいます。 「『ついに来たか』という感じでした。他社チームへの移籍も考えましたが、野球を続けられても年齢的にあと1、2年でした。野球を辞めた後、知らない会社で仕事をするより、長年お世話になった日産で仕事をした方が環境は良いと思い、監督に移籍はしないと伝えました」 野球中心の生活だったため、仕事が思うように出来ずにつらい思いもしたという小山さん。それでも日産に残ってよかったと話します。 「みんな忙しそうで、仕事のやり方も聞きづらかった。でも、仕事を続けていくうちに、社内には自分のことを知っている人がたくさんいることを知りました。『あの小山だ。応援していました』と言ってくれると嬉しいですね。そこから話が広がり、相手とうまくコミュニケーションが取れ、仕事に役立つ時もあります。野球をやっていてよかった。そして今は日産のグループ会社に出向中ですが、日産自動車で働かせてもらってよかったと思います」
ほとんどの選手が会社を辞めずに仕事
休部当時、副部長を務めていた児山哲哉さん(46)は、選手の次の移籍先や配属先を決めるのに奔走しました。 「1日の仕事が終わった後、寮に向かい一人ひとり面接をしました。それを何日も続けました。移籍をする選手たちは、移籍先が正社員なのか、退職金は出るのか。まず労働条件を確認しました。そして日産に残る選手たちには、それぞれのキャリアを考え、配属先を考慮しました」 児山さんは、今後どんな仕事がしたいのか、転勤があってもいいのかなど、選手たちから熱心に話を聞きました。その結果、今でも日産に残ったほとんどの元選手が会社を辞めずに仕事を続けているといいます。 「今でもはっきり言えますよ。部員32名中移籍が15名。会社に残った選手で辞めたのは、昨年高校野球指導者に転身した1名のみです。彼も初年度の昨年、県大会で準優勝と甲子園まであと一歩のところまで行き、頑張っています」 児山さんは胸を張ってそう話します。