破天荒で豪快なエピソードで知られる”天下御免のかぶき者”【前田慶次】は史実ではどんな人物だったのか?
前田慶次郎(まえだけいじろう)は、戦国時代の武将としてはほとんど知られることのなかった人物であった。しかし、作家・隆慶一郎(りゅうけいいちろう)の歴史小説『一無庵風流記』(1889年)を原作にした漫画『花の慶次』で青少年ばかりか、一般にもよく知られるようになった。前田慶次郎は、小説や漫画の世界だけではなく、実在の世界・戦国時代にも「傾奇者」として知られていたらしい。「かぶき者」とは武家社会のしきたり・上下関係・礼節などが自らの性に合わず、ドロップアウトしていくような男をいう。 まさに慶次郎こそ、そうした「かぶき者」にぴったりの生き方をした。そこに惹かれる現代人は多く、それこそが慶次郎の人気が高い理由でもあろう 実際の前田慶次郎は、不明な部分の多い人物であり、生没年も出生地や父母についても不詳とか異説ありとされる。だが、慶次郎の実父は織田信長の家臣であった滝川一益(たきがわかずます)の一族・滝川益氏(ますうじ)であったという。益氏の妹(娘とも)が同じ信長家臣の前田利家(としいえ)の兄・利久(としひさ/尾張・荒子城主)に嫁いだことから、慶次郎は後に利久の養子になっている。慶次郎の本名は「利益」であり、養子になった後に元服して「利益」を名乗った。 しかし永禄12年(1569)、前田家の家督が信長の命令で、利久でなく弟・利家に継承されることになった。このため、慶次郎も義父の利久ともども流浪の身になった。こうした経験が「かぶき者」の下地になった。それから14年間、利久一家と慶次郎の消息は全く不明のままであった。豊臣秀吉の天下が定まろうとしていた天正11年(1583)になって、能登23万3千石の大名であった前田利家から利久に7千石、慶次郎に5千石の録が与えられた。4年後、利久は金沢で病死。慶次郎は、この時点で「前田家」との縁を絶つ決心をした。 慶次郎の戦いぶりは、常に先頭に立って一騎駆けをし、眼前の敵を長槍で突き伏す戦い方であった。派手だが、慶次郎に引きずられて戦死する武者も多かったというから、利家などは迷惑であったともされる。慶次郎の武術は、習ったものではなく戦場での経験を増やすことで身に付けたものであった。 慶次郎には「かぶき者」といわれる奇行が数多くあったという。前田家と縁を切る際に、叔父に当たる利家を温かい風呂と偽って真冬の水風呂に入れて金沢を去ったという。 また、豊臣秀吉との初対面に際しては、髑髏(どくろ)の紋所が付いた白い小袖に真っ赤な革袴、虎の皮の裃という姿で出て、しかも髷を片方に寄せて結い、平伏した時に顔は横に向きながら、髷(まげ)は秀吉の正面を向いているという形を取った。秀吉は面白がったが、形を改める際には髪も衣服も正装になって、改めて秀吉を喜ばせた。秀吉は慶次郎に「どこであろうが生きたいように生きて良い」という「天下御免の傾奇者」免許状を与えた。 流浪時代から秀吉の時代までに慶次郎は、古典文学などを学び、茶を習い、謡曲や仕舞もも楽しむという風流人としても生きた。慶次郎は、文武両道の達人でもあった。 時代が変わり、関ヶ原合戦では、慶次郎は上杉景勝・直江兼続らの上杉軍に属し「長谷堂城の戦い」で殿軍(しんがり)を務めた。上杉家が米沢に移封されると、慶次郎も米沢に赴き、一無庵という庵を建ててそこで『源氏物語』などの講義をして過ごしたといわれる。世の中を斜に構えて生き、好きな時に寝て、好きな時に起き、好きなことだけをして死ぬ。これが男としての慶次郎の生き方であった。魅力的な武将の代表であろう。
江宮 隆之