ZARD・坂井泉水さん ファンの前に初めて姿を見せたのはデビューから8年後…「謎に包まれた歌姫」の生き方
社会が先行き不透明な時代に…
当時の朝日新聞の声欄。53歳の女性は「私の葬儀の時には『負けないで』をかけて」と冗談まじりで家族に言っていたという。澄んだ歌声とともに、歌がストンと心に入ったそうである。結婚、子育て、子どもの受験、経済への漠然とした不安……。「学校に受かることも大切だけれど、受かる受からないより、負けないで。自分に負けないで」とエールを子どもたちに送っていたという。 悲しいニュースが日本列島を包んだ。所属していた東京・六本木の事務所と大阪の関連レコード会社には献花台が設けられ、数千人のファンが訪れたという。バブルが崩壊し、日本が閉塞感に包まれていた1990年代の若者たちを励ました「負けないで」。制服姿の高校生やネクタイ姿の会社員、赤ちゃんを抱いた女性らが次々と花束を持って訪れ、記帳した。遺影の前で嗚咽する女性。坂井さんの存在の大きさを改めて知らされた。 それにしても、坂井さんは生前、メディアにほとんど露出しなかった。女性特有のがんを患っていたことが明らかになったのも亡くなってからのことだった。 なのに、多くのファンの心をとらえたのは、先行き不透明なあの時代、軽やかな歌声と普遍的な歌詞に、だれもが自分の体験を重ねることができたからではないだろうか。阪神・淡路大震災、オウム真理教による一連の凶悪な事件、就職氷河期……。東京社会部の駆け出し記者だった私は、世の中がどんより沈んでいた感じだったことを覚えている。 唐突かも知れないが、ノストラダムスの予言によると、人類は「1999年7月に滅びる」とあり、それに向けて世の中全体がひた走っているようなムードすら私は感じた。もちろん、何も起きなかったし、人類は21世紀を迎え、今日に至っている。 90年代後半は「TOMORROW」(作詞・岡本真夜ほか)、「I’m proud」(作詞・小室哲哉)など、前向きな生き方や励ましを訴える「前向きソング」が若者の心をとらえた時代でもあった。あのころのポップスのキーワードを「がんばれ」「大丈夫」「元気」の3つとみていたのが作詞家の阿久悠さん(1937~2007)だった。 《元気がない時に、元気という言葉を求めたくなる。『がんばれソング』に群がりながら、実のところ何をがんばっていいのか分からない。そんな現代の若者の姿を象徴している》(朝日新聞:98年5月17日朝刊) 70年代後半に大ヒットしたピンク・レディーの「UFO」や「ペッパー警部」とは決定的に違った。あのころ高校生だった私は、歌詞の中にドラマを見つけ、そこにひたる想像力を楽しんでいた。だが、阿久さんは「いまは、こういう曲を出しても売れないだろう」と生前お会いしたときに言っていた。「時代の飢餓感にボールをぶつける」ことを自分に課していた阿久さん。90年代に相次いだ「がんばれソング」について本当はどう思っていたのだろう。