「戦闘機の編隊見て防空壕に飛び込んだ」 長野空襲を語り継ぐ集い
終戦直前の長野市で多くの犠牲者を出した米軍の空襲。その体験を語り継いでいく「長野空襲を語る集い」が13日同市内であり、中・高校生から戦争体験者まで幅広い市民約100人が平和への思いを語り合いました。空襲は東京など大都市から全国の200か所近い地方都市に拡大して終戦直前まで繰り返され、傷跡は今も各地に残っています。 【動画】元ゼロ戦パイロット・原田要さん「戦争の罪悪で世界一、非人道的な人間に」
パイロットの顔が見えるくらいの低空飛行
集いは長野市民らでつくる「長野空襲を語り継ぐ会」(大内啓造会長)の主催で、今年で32回目。昭和59(1984)年に市内の裾花中学校の生徒が歩いて調べた長野空襲の実態を発表。詳しい事情が明らかになったことが大人たちを動かし、翌年から毎年、空襲のあった8月13日に集いを開いてきました。 同会の資料などによると、長野空襲は終戦となった昭和20(1945)年8月15日の2日前の13日、茨城県東部の鹿島灘に進出した米空母から飛来したグラマンなどの戦闘機が早朝から午後にかけて5回にわたり長野駅や国鉄の機関区、長野飛行場などを攻撃。ロケット弾や機銃掃射などの被害は松代や川中島など周辺地域にも及び、47人が犠牲になりました。 この日は、空襲のとき8歳だったという磯野博康さんが「国民学校の児童だったが強制疎開させられた。グラマンが編隊を組んで飛んできたのであわてて防空壕(ごう)に飛び込んだ。戦闘機は旋回して攻撃を繰り返していた」と説明。山岸勝男さん(81)は、「お盆の花を採りに山へ行ったら空襲警報が鳴った。見慣れない飛行機だなと思ったら翼に星のマークが見えた。そのうち急降下で攻撃を始めた」と話しました。 書面で体験談を寄せた須坂市の小原定幸さんは「当時長野市内に自宅があり、中学生だった私は空襲の一部始終を見ていた。米軍機の空になった燃料タンクがひらひら落下したり、ロケット弾が白煙を曳(ひ)いて放たれる瞬間やパイロットの顔が見えるほどの低空飛行が目に焼き付いています」。そして「近いうちに長野空襲の体験者は誰もいなくなってしまう。今のうちに語り継いでおきたい。二度と戦争の道を歩まないように」と訴えました。