「どう死ぬか」ホームホスピス、笑って過ごすもうひとつの家
ホームホスピスの第一号が誕生したのは2004年、場所は宮崎県だった。背景にあったのは、病気や障害があっても最期まで自分らしい暮らしができる「家」が必要だという思い。徐々にその数は増え、現在全国にホームホスピスは34軒ある。にじいろのいえは東北で2番目だ。 一般にホスピスと呼ばれる緩和ケア病棟は、積極的な治療をしない人、余命期間が短い人しか入れない。だがホームホスピスは、介護保険制度の枠を越えた施設であり、介護度や年齢などの制限が無い。 にじいろのいえでは、余命に拘わらず他に選択肢がない人を優先している。難病をもつ62歳の女性は、59歳で発症し、自宅で夫の介護を受けて暮らしていた。病状が悪化し入院、人工呼吸器を装着することになった。近隣に夜間対応のヘルパーがいないため、在宅でのケアはあきらめ、介護施設を探した。が、人工呼吸器を装着した患者を受け入れてくれる施設は見つからなかった。 県外へ転院する数日前に、にじいろのいえへの入居が決まったという。 「ここがなければ、病院を転々とすることになったと思う。本人は県外に行きたくないと言っていたので、本当に良かった」 そう話す夫も、突発性間質性肺炎という難病を発症し、今は一緒に暮らしている。 月々かかるお金は居室料、生活支援費、食費や光熱費など合わせて12~17万円程度。その他、訪問介護やリハビリなどの介護保険サービスが、一部自己負担となる。スタッフの配置は、日中は4~5人、夜間1人。掃除、洗濯、食事の準備や、トイレの介助など生活の援助をしてくれる。
自宅に住めなくても家庭的な暮らしを
神奈川出身の今野さんは、大学進学を機に宮城県へ来た。結婚、出産を経て、重度身体障害者支援施設で介護スタッフとして6年間勤務する。その後、子どものためにも夜勤のない仕事に転職しようと考え、当時新設されたばかりのケアマネジャーの資格を取得。2003年にケアマネジャーとして働き始めたのが、知人の紹介で知った岡部医院だった。 自宅で最期を迎える人を全面的にサポートするため、勤務医だった岡部健医師が1997年名取市内に開設したのが岡部医院だ。全国に先駆け、毎年300人以上の自宅での看取りを行ってきた。医師と共に、看護師、ヘルパー、社会福祉士、ケアマネジャーなどが、チームで本人と家族を支えている。 今野さんは2人目のケアマネジャーとして、入院患者が家に帰るまでのサポートに関わった。サービス調整や介護保険制度の知識を深めたのはもちろん、連携する施設に張り付き、密なコミュニケーションの中で退院調整やチーム連携のノウハウを学んだ。 自宅療養をサポートしていくなか、心の中に葛藤が生まれる。自宅で過ごしたいという希望がどんなに強くても、病状や医療処置によっては、自宅で過ごすことが叶わない人がいる。一方で、介護施設に入所できずに、家族がギリギリの状態で介護をしている人もいる。 末期がんで「いつ動けなくなるか」と不安を抱えながら一人暮らしをする人でも、今動けていれば介護施設には入れない。難病で介護が必要でも、40歳未満であれば介護施設には入れない。 そんな「看取り難民」になってしまった人のため、こう思う。「病気や年齢、介護度に関係なく、行き場のない人達の過ごす場所が必要だ」。 そんなとき、ホームホスピスという存在を知った。2013年、今野さんは兵庫にある2つのホームホスピスに見学に行く。見学しながら感じたのは、「ゆったりとした時間の流れ」と「家庭的な安心感」だった。 同じような場所が仙台でも必要だと今野さんは確信する。夫や仲間の協力にも背中を押され、ホームホスピスを始める決意をした。 2014年1月に月虹を設立、岡部医院を退職し、4月に一軒家を借りてにじいろのいえを始めた。最初は入居者が増えず赤字が続いたが、徐々に医療機関にも認知され、軌道に乗せることができた。