家康・秀忠に疎んじられた大久保忠隣の「自尊心」
■重臣として権勢を誇った大久保忠隣 大久保忠隣(おおくぼただちか)は、父忠世(ただよ)と共に譜代家臣として徳川家康(とくがわいえやす)に仕え、数々の武功により後の老中に近い重要な地位を得て、初期の江戸幕府において大きな権勢を誇りました。その後、二代将軍秀忠(ひでただ)付となると、本多正信(ほんだまさのぶ)たちと共に老中に任じられるほど信任を得ています。 順風満帆のように見えた大久保家でしたが、忠隣の子である忠常(ただつね)が若くして急死したのを境に、徳川家からの信任を失うようになり1614年に忠隣は改易されてしまいます。そして、忠隣が死去するまで、その罪は赦されることはありませんでした。 この凋落には、忠隣の強い「自尊心」が関係していると思われます。 ■「自尊心」とは? 「自尊心」は国語辞典等によると、自分の人格を大切にする気持ちの事です。また、自分の考えや言動などに自信を持ち、他人からの干渉を無視して品位を保とうする態度の事となっています。 自尊心はメンタルを維持するためにも必要ですが、逆に高すぎるとデメリットが目立ってしまいます。人を見下す、自己承認欲求が強い、妥協しない、攻撃性が強いなどにより、周囲に不快な思いを与えてしまいます。そのため、「自尊心が高すぎる」というように、マイナスな使われ方もします。 一方で、混同されがちな「自負心」は自分の才能や仕事について自信を持ち、誇りに思う心の事です。そして、何事もやり遂げるという責任感が付随してきます。自負心の強さは他者も認める高潔なものですが、自尊心の強さは往々にして傲慢(ごうまん)さや驕(おご)りとなり、他者から嫌悪されます。 ■大久保家の事績 大久保家は酒井家や石川家、本多家とともに安祥譜代7家に数えられ、岡崎譜代の井伊家や内藤家よりも古くから徳川家に仕える家柄です。 祖父忠員(ただかず)のころから数々の戦に参加し活躍し、父忠世は三河一向一揆や長篠の戦いなどで武功を挙げ、徳川十六神将(とくがわじゅうろくしんしょう)にも数えられています。忠隣も初陣で首級を取るなど活躍し、三方ヶ原の戦いでの功績が評価されて後の老中のような役目を得ています。家康の関東入封の際には、武蔵羽生2万石を領し、1593年ごろからは秀忠付きの家老となります。 そして1594年には、父の遺領も引き継ぎ、相模小田原6万5千石を支配するようになります。その後、関ヶ原の戦いでの秀忠の補佐役が評価されたのか、上野高崎13万石への加増を打診され、これを断ったと言われています。1610年には、秀忠の元で本多正信たちと共に初期の幕政を取り仕切るようになりました。 しかし、1614年に突如として罪を得て改易を申し渡され、近江の井伊直孝(いいなおたか)の元に預けられます。その後1628年に亡くなるまで、その罪を赦されることはありませんでした。この改易には忠隣の「自尊心」が招いたと思われる点があります。