加藤清史郎、“こども店長“ブレイク後の今につながる分岐点。市川海老蔵の一言で「役者として生きていく覚悟を決めた」
――海老蔵さんとの出会いは大きかったですね。 「ものすごく大きかったです。お芝居の面でもものすごく刺激を受けましたし、今でも忘れないいろんなエピソードやトラウマレベルのドキッとした話もたくさんあります。 本番中に1列目のお客様が開演から10分後ぐらいしてから入ってこられたことがあったんです。それを見た海老蔵さんが僕に、『鯛蔵、今あの方は来られたばかりだから、(舞台が)始まってから10分くらいで起こったことを全部、今からさ、お前ひとりでやってくれない?』って言ったんです。 役の海老蔵さんと役の鯛蔵という関係値で言ったセリフでもあり、清史郎に対する挑戦でもあり…。それで、全部説明したんですよ。『まずですね、ここから僕が出てきて、この話をしました。そうしたら、携帯を持った海老蔵さんが、こちら下手の一番から出てきてですね…』とかっていうのをやらされたり(笑)」 ――すごいですね。お客さんは喜んだでしょうね。 「すごく喜んでくれました。でも、無茶振りにもほどがあるので(笑)。もともとクドカン(宮藤官九郎)さんの作品なので、『どこまでがアドリブなのか?』って感じると思うんですけど、アドリブに見えて、ほとんどアドリブじゃないんですよ。 そのなかでガチのアドリブが入ると、どんどんこんがらがっていくというか(笑)。僕は1幕の頭は海老蔵さんとじゃれ合うシーンだったんです。でも、2幕の頭は、劇中劇から1回また楽屋に戻るんですけど、獅童さんと2人のシーンだったんですよ。で、獅童さんも獅童さんで、いろいろやってくるから(笑)」 ――それに対応できたことがすごいですよね。 「結構ヒヤヒヤでした(笑)。ストーリーテラーもやっているから、次のシーンの転換のきっかけが、だいたい僕のセリフなんですよ。だから、どんなにいろんな方向に飛んでも何とかして軌道修正しないといけない。 僕が関わっていれば、ひとつひとつの言葉で言い直せたりするところもあるんですけど、海老蔵さんと獅童さんのやり取りでどこかに行ったときに、僕がその2人分を全部持ってこないといけなくて…。だってやらないと進まないし(笑)。そういう崖っぷちの状況で舞台上に立っていましたね」 ――もう何も怖くなくなりますね。 「そうですね。何とかなるなというのは思いましたね。何とかするんだって(笑)。いい意味での自信は少しそこでついたのかなっていうのはありますね。すべてが100パーセントうまくいったわけでもないですし、もちろん(舞台)袖に帰ってきてからすごく反省する点もありましたけど、本当にすごくいい思い出です。 東京公演の次の年に地方公演にも行ったんですけど、役者でやっていこうと思った矢先に経験値のたくさんもらえる作品に関わらせていただいて、まだまだだなって感じられたのは大きかったですね」 ――そのときには留学することも念頭にあったのですか。 「海老蔵さんと話をして役者として生きていきたいなと思ったのが中学1年生の冬ぐらい。その後、2年生の夏に進路を考えなきゃいけない時期に決めました。 英語がしゃべれるようになりたいし、海外の演出家さんと会ったときに、しゃべっていた他の役者さんみたいに何でもない話ができるようになりたい。もし、ご飯とかに行けたら作品の話ももっとできて、役も作品全体も少しでも良くできるのかもしれないと思っていたので、今かもしれないなって。 それこそ大好きなミュージカルは声変わりで、基本的にお仕事ができない状況でしたし、映像でもその年齢が一番お仕事がないというか。 たとえば中学2・3年生、高校1年生とかで身長が高かったら大人のキャストに紛れて高校生役とかもできるんですけど、僕は小柄だったのもあってなかなか難しかったんですよね。今でも高校1年生の役を高校1年生がやることって実は少なかったりするんです。現に僕も昨年、高校3年生の役をやっていたので。 もちろん高校3年間日本にいることでできる経験、関われる作品もあるにはありますし、関われなかったとしてもそれも自分の大きな糧になるとは思うんです。でも、それより留学して日々を過ごして、芸術も学んで…というほうが僕にとっては有意義なんじゃないかなと思って決めました」 2016年、中学を卒業後、加藤さんはイギリスの高校へ進学し、現地の演劇学校で演技の勉強も始めることに。次回はイギリスでの生活、主演映画『#ハンド全力』、日曜劇場『ドラゴン桜』の撮影エピソードなども紹介。(津島令子) ヘアメイク:入江美雪希 スタイリスト:金順華(sable et plage)