消えた川や内海はどこへ?地名でたどる水都大阪の原風景
江戸八百八町、大坂八百八橋とうたわれた水都大阪。水路は物資を運び、橋は出会いや別れを演出していた。時が流れて水路の多くは埋め立てられたものの、水都の面影は今も地名からしのぶことができる。浜、川、堀、橋、津、池。水にまつわる文字が織り込まれた地名を辿りながら、水都大阪の原風景を探してみよう。
「浜」は海岸線ではなく川岸
大川(旧淀川)左岸の八軒家浜(大阪市中央区)。一般的に浜は海岸線を示すが、江戸時代までの大坂では、川岸を「浜」と呼んだ。ご当地は八軒の船宿が立ち並んでいたことから八軒家浜と呼ばれ、水運の拠点だった。 京・伏見と大坂・八軒家浜が、淀川の三十石船で直結していた。所要時間は上り一日、下りで半日。幕末期、国事に奔走する志士たちも重宝していた。船宿や料亭は、大川から小舟で直接乗り付けることができたため、密議の場にも適していた。八軒家浜は単なる船着場ではない。近代日本誕生にひと役買った水辺のコンベンションセンターだった。 大阪市東端に位置する茨田浜(まったはま)交差点(鶴見区)。近くを流れる古川に、かつては船着場があり、定期船が寝屋川を経由して八軒家浜と結んでいた。人々は地下鉄やバスを利用するように、縦横に張り巡らされた水運ネットワークを活用していた。
「曽根崎心中」の舞台となった蜆川
東京・銀座と並ぶ大阪の高級歓楽街、北新地(大阪市北区)。蜆川(しじみがわ)という風情のある名の川が流れていたことは、今ではほとんど知られていない。東から西へゆるやかに弧を描きながら新地を横切っていた。 江戸中期、毎日蜆川をながめて生きていた遊女のひとりにお初がいた。近松門左衛門の名作「曽根崎心中」のヒロインだ。お初と商家の手代徳兵衛が叶わぬ悲恋を嘆き、曽根崎・天神の森で心中した実話に基づく。 近松は現場を歩いて取材。心中事件が起きた翌月には文楽舞台で上演し、人気を呼ぶ。民衆の求めるテーマを速報態勢で物語に仕立て上げる。臨場感あふれるドキュメントドラマだ。お初・徳兵衛が蜆川にかかる橋を渡って死地へ急ぐ道行シーンが涙を誘う。蜆川は明治に入り、「キタの大火」のがれき処理で埋め立てられた。御堂筋に面したビルの外壁に刻まれた「史跡蜆川跡」の顕彰碑が、わずかに川筋の記憶を受け継ぐ。