消えた川や内海はどこへ?地名でたどる水都大阪の原風景
江戸時代の川筋を行き交う地下鉄
市営地下鉄長堀鶴見緑地線は1990年の「花の万博」開催時、大阪の都心と鶴見区の花博会場をつなぐ主力交通機関として開通した。東から西へ順に長堀橋、心斎橋、西大橋、西長堀と、水にちなんだ駅名が連続する。地下鉄開通前に流れていた長堀川の名残だ。 江戸初期に開削された長堀川は道頓堀の北側を東西に流れ、商都大坂の幹線水路だった。一帯の川岸は石材の荷揚げ場所で、「石屋の浜」「石浜」などと呼ばれてにぎわい、さながら灯ろうなどのショールームの様相を呈していた。 その後、水運から陸運への時代の流れに抗することができず、埋め立てられ長堀通に姿を変える。さらに地下鉄が開通し、往時の川底に沿って地下商店街「クリスタ長堀」が開業。常ならぬ川の流れのように、水路から道路、地下鉄、商店街へと千変万化だ。
夕霧太夫に会いたや新町橋
江戸時代、東西を流れる長堀川と道頓堀に対し、南北を貫いていたのが東横堀川と西横堀川だった。西横堀川は1970年代、高速道路建設などの都市再開発の一環として埋め立てられ姿を消す。 旧西横堀川の川筋に「新町橋跡」の顕彰碑が立つ。新町橋は江戸期、東のビジネス街船場から西の新町遊郭へ入るゲートの役割を演じていた。 新町は江戸の吉原、京の島原と並ぶ三大花街で、遊女たちの頂点に君臨する「太夫(たゆう)」は、才色兼備のアイドル的存在だった。とりわけ絶世の美女とされたのが夕霧太夫。夕霧直筆の恋文や夕霧着用の小袖が、天王寺区内の寺院に残されている。
ふたつの川が十字に交差し橋が4つ
東西を横切る長堀川と南北を貫く西横堀川が十字路状態で交差していたのが、四ツ橋。東西南北に橋がかかっていたので、「四ツ橋」の名が生まれた。水都にふさわしい情景だけに、大坂の代表的名所として錦絵などに繰り返し描かれた。 「旧名所四ツ橋跡」顕彰エリアでは、木製の橋の欄干や床面が小ぶりながら再現され、「すみやばし」など4つの橋の橋名板を、現役当時のまま展示。4つの橋がかかっていたころの情景を思い浮かべることができる。江戸期の俳人小西来山の句――。 「涼しさに 四つ橋をよつ わたりけり」