消えた川や内海はどこへ?地名でたどる水都大阪の原風景
内海に面した古代の良港
時代は江戸期から古代へ。古代の大阪平野は標高が低く、東の生駒山地と西の上町台地の間に湖のような内海が広がっていた。平野川が入り江に流れ込むあたりが「猪甘(いかい)の津」と呼ばれ、船の出入りに適していたため、港として栄えていく。 「日本書紀」によると、仁徳天皇の時代、ご当地に「小橋(おばせ)」と呼ばれる橋がかけられたとあり、記録に登場する日本最古の橋とされる。大阪市生野区の「つるのはし跡」がこの最古の橋があった場所と伝わる。多くの鶴が飛来したことから、いつしか「鶴橋」の地名が生まれたという。 大阪市東住吉区の桑津周辺も、内海に面した港があった地域と推定される。さらに桑の葉による養蚕と生糸の生産が盛んだったため、「桑津」の地名が定着した。
今も昔も夏は川べりで夕涼み
見渡す限りのハスの群生が風にそよぐのは、大阪市阿倍野区の桃ヶ池。一帯が公園に整備され、地域住民のいこいの場所になっている。股ヶ池明神が祭られ、聖徳太子が大蛇を退治したとの伝説が残る。大蛇退治とは川の氾濫を防ぐ意味合いと読み解く説もある。豊かな水の恩恵は、つねに水害による危険と背中合わせだった。 日が沈むころ、再び八軒家浜へ。船着場や周囲の橋がライトアップされている。仕事を終えた人たちが心地よい川風に打たれてくつろぐ。江戸時代の人たちも大川へ繰り出して、夕涼みを楽しんだ。行き交うナイトクルーズの船から、にぎやかな歓声が響いてくる。水都の夏の過ごし方は今も昔も変わらない。 (文責・岡村雅之/関西ライター名鑑)