錦鯉、バイきんぐ、ザコシ……「芸人の墓場」と呼ばれた事務所で、売れっ子を量産する仕掛け人
錦鯉のツッコミ担当・渡辺は平井を「非情」と評する。 「仲間内で楽しそうにやっている売れない芸人に『それは違うよ』って言える人。これまで頑張ってきたからとかそんなのは関係ない。若い頃は、いつか誰かがわかってくれると思いたがるものなんですが、平井さんは『自分が変わらなければ誰も気づいてくれないこと』を教えてくれました」 事務所の若手にはわかりやすいネタ、最短経路でウケるネタを作れとたたき込む。錦鯉が長谷川の「おバカ」キャラクターを前面に出して一皮むけたのは、まさに「わかりやすさ」そのものだ。 「まずはわかりやすいネタで目を引く。ただそれだけだとあっという間に消費されちゃうからトーク力も必要です。テレビと同じくらい動画が力を持つ時代になった今でもそれは変わらないと思うんです」
上層部に直談判、ソニーでお笑い部門を立ち上げる
平井は1991年、大手芸能事務所の渡辺プロダクションで社会人生活をスタート。マネージャーとして主にお笑いタレントを担当した。長く仕えたホンジャマカの担当を離れたタイミングで、7年間勤めた渡辺プロダクションを退職。今度は音楽業界に身を投じた。 「何万人も入る会場が満員になって、みんなが同じ時間を共有する、その規模にとても魅力を感じたんです」 だが、勝手の違う異業種で心をすり減らすことも多かった。テレビ局やラジオ局で頭を下げ続ける日々。粘り強く耐える中で転機が訪れたのは6年後の2004年。社内の事業再編の動きを察知した平井は、お笑い部門の立ち上げを提案する。
「当時、グループ内合併で組織改編があり、SMAは総合芸能事務所になったんです。でもお笑い部門だけがなかった。世は折しもお笑いブームの真っ最中でした」 平井は上層部に向けて企画書を用意。〈ダウンタウンのようなお笑いタレントを育て上げ、冠番組で事務所のアーティストでオープニングとエンディング曲を独占する〉という夢物語を熱く書き連ねた。半分はハッタリだったが、半分は本気だった。会社からゴーサインが出て、平井の「お笑い第2章」は始まった。