「個人特定力の戦争」が始まった――香港「覆面禁止法」が生まれる背景
日本はもともと個人特定力社会
日本は、他国と比べて比較的安全な社会であった。犯罪の検挙率も高く、財布を落としてもそのまま戻ってくることが外国人にも知られている。単純に考えればモラルが高いのだが、海外のモラル意識とは異なる日本人独特のモラル意識があるのではないかとも思われる。 僕の言い方では「家社会」ということだ。日本社会は「天皇を家長とする一つの家」であり、それが独特の相互扶助社会、相互干渉社会、相互監視社会となっている。寺社の檀家制度、隣組、向こう三軒両隣といった地域社会の伝統、あるいは終身雇用、社宅、退職金、企業年金、保証人といった制度、警察力の街頭拠点としての交番などもその役割を果たしている。つまり「家を基本とする個人特定社会」であり、それが犯罪に対する安全性や、官庁や企業の勤労意欲にもつながっていたのだ。 しかし人口が減少する社会でそれなりの生活水準を保つためには、ある程度、多民族多文化を受け入れる覚悟が必要だろう。キャッシュレスやシェアの経済も進行するだろう。そういったオープンな(開かれると同時に晒される)社会において、どのように家社会独特の「和」の文化を保つのか、そこにもITを応用した新しい個人特定力の問題が浮かび上がる。
「開かれた社会」から「晒された社会」へ
現在、個人特定力においてもっとも科学的な技術はDNAの照合である。犯罪捜査においてもDNAの一致が決定的な証拠であり、昔からの似顔絵、モンタージュ、目撃者の面通しといった曖昧なツールに代わる、絶対的なツールとして扱われる。時代は「顔」から「DNA」へと変化していった。 ところが再び「顔」の時代である。昔から「顔役、顔が広い、デカい顔をしている」などの言葉は、個人の力の社会的な広がりを示すものであったが、時代は変わっても、個人と社会との最強のインターフェイスは、文字通り「顔」なのだ。 そしてその「顔」が、「個人の自由」へと向かっていた近代社会を、また異なる方向へと導きつつある。「不安な自由」より「不自由な安心」ということだろうか。もともと自由とは不安を伴うものだが、近代人にとってこれは大きな方向転換である。「開かれた社会」(カール・ポパー)という言葉に共感していたが、現在の世界は「晒された社会」へと動いているように思える。 顔認証技術の時代、安部公房の『箱男』にも新しい読み方が生まれたというべきか。医学部を出たこの作家は、「顔」という身体の一部が社会と個人のインターフェイスであることに独特の意識をもっていたに違いない。 ひょっとすると今後、多くの人が変装用マスクをして、あるいは箱をかぶって、街を歩く時代がくるかもしれない。