「個人特定力の戦争」が始まった――香港「覆面禁止法」が生まれる背景
5Gと個人データ
中国のファーウエイという企業のCFOがアメリカの要請で拘束されたことが衝撃的だったのは、一企業の情報技術の問題が、経済にとどまらず安全保障にも大きな影響を与え、それに対してアメリカという大国が国家防衛としての対応をとったという事実である。新しい冷戦ともいわれる超大国の覇権争いは、かつてのような核ミサイルよりも、IT、特に5G(第五世代移動通信システム)が焦点となっているのだ。移動体通信の技術は個人の特定とその行動の特定にも絡んでいて、経済の問題であるとともに、犯罪の問題でもあり、安全保障の問題でもあるということであろう。 GAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)と呼ばれる企業群が世界の個人データを独占していることが問題になり、その技術が中国に流入し、BATH(バイドゥ、アリババ、テンセント、ファーウェイ)と呼ばれる企業群の力が拡大していることも問題になっている。個人データは現在、主として消費行動つまり経済の問題として扱われるが、個人の内面に及べば政治的にも文化的にも大きな問題だ。われわれの身体は監視カメラの網に晒され、われわれの頭脳はインターネットの網に晒されている。ITによって、強い殻に守られていたはずの近代的な自我をもつ個人が溶解しつつある。
無差別テロとサイバー戦争
アメリカで同時多発テロ(2001年9月11日)が起きたとき、当時のブッシュ大統領は「これは戦争だ」と叫んだ。しかしそれは通常の国家と国家の戦争ではなく、アメリカという巨大な軍事組織と、テロリストという個人の集合との戦争である。 前に、建築の歴史から戦争の変遷について書いたが、第二次世界大戦以後、核兵器という相互大量破壊兵器の時代となり、正規軍の戦いからゲリラ戦へ、そして無差別テロへという変化を論じた。軍人ではなく市民を狙った無差別テロは、加害者も被害者も特定が不可能という前提にもとづいた戦術であり、アメリカ大統領の「戦争だ」発言は、その不可能なはずの個人特定を可能にするという宣言であった。いわば犯罪捜査的な、個人特定力の戦争である。 加えて最近はサイバーテロが拡大しつつある。もちろんここでも個人特定力が問題となる。そもそもサイバーテロとは加害者の特定が難しいのでその対処が難しいのだが、加害者が容易に特定できれば、少なくとも組織的な攻撃の可能性は一段と低減されるであろう。 5G時代の覇権争いが激化する現象の裏には、こうした個人特定力の戦争が隠れているといえる。