キラキラした街「港区」がゴキブリやドブネズミばかりだった1970年代…底辺漫画家が振り返る「仲がよかったのが“小指のない”おじさんで」
底辺漫画家 超ヤバ実話 #1
東京都港区東麻布出身の漫画家・近藤令。港区の“ハイソな街”のイメージを覆す、今でも忘れられない幼少期のこと、クセが強すぎる家族との思い出とは? 【画像】幼少期のとき、お腹が減ったら親父が作ってくれた生姜焼き定食 近藤さんの幼少期を『底辺漫画家 超ヤバ実話』(青志社)より、一部抜粋、再構成してお届けする。
断末魔の声と、白いはらわた
ぼくが通った小学校は、飯倉小学校といって、歴史だけは古く明治11年の開校ということでした。名前は名門のような響きですが、第二次ベビーブーム世代だというのに、学区内に子どもが極端に少ないから、運動場も驚くほど狭い。まるで幼稚園の運動場です。その上、地面は土じゃなくてゴム。人工芝みたいにメンテナンスが簡単になるからだと思う。グラウンドは一周200mもなかったから、学年全員が集合すると、もうすし詰め状態(笑)。手を伸ばして左右に振ったら、隣の友達に触れる感じですよ。 ただ、そんな場所だから、街中には今で言う小股の切れ上がった……この言い方も古いな。キャピキャピした感じの、いかにも金持ち社長たちに気に入られそうな「港区女子」なんて姿形もありませんでした。 いるのは、新橋にいるようなくたびれたサラリーマンと、油まみれの作業服をまとった工員の人ばっかり。当時すでに、商店街は廃れていて「ど田舎」というか「田舎のシャッター商店街」という感じに成り果てていましたね。 両親はそんな東麻布の一角で小料理屋をしていました。ランチや仕出し弁当がメイン。夜はスナックのような感じで、なんでもありみたいなお店。名前は、ひらがなで「いろり」。 父方のおじいちゃんが創業したと聞くけど、本当のところはわからない。親父一代で築いたとは思えないから、創業はたぶんおじいちゃんで間違いないでしょう。 一階が店で、二階が住居。飲食店はどこもそうだと思いますが、とにかくゴキブリが多かった。深夜、寝ていると頭の上をゴキブリがササ~っと這っていく。顔を噛まれたことも何度かある。 おばあちゃんは、ゴキブリを素手でぐしゃりとつぶし、握った手から内蔵が流れ出していた。 店では親父がバカでかいどぶネズミを足で器用に踏みつぶし、「ぎゃ~っ、ギキキッッ……」と叫ぶ、どぶネズミの断末魔の声と、口から飛び出した白いはらわたが今でも忘れられない。 あんな俊敏な動物をよく足で的確に補足し、瞬時に踏み殺せるなと尊敬していた。 あと、すぐ二階が住居スペースなのに両親は、滅多にあがってこない。ゴキブリやどぶネズミがウジャウジャいるお店の座敷席に布団をしいて寝ていました。今だったら絶対に、そんな場所で寝るなんて信じられないけど、当時はゴキブリやネズミぐらい平気だったんでしょうね。よく、ネズミに顔をかじられなかったもんだ。 まぁ、そんなことより、二階にあがるのが面倒だったんでしょう。