【没後10年】ついに実妹が待つ北九州に…高倉健さん ようやく明らかになった「遺骨」の謎
親族のもとに戻ってきた「遺骨」
「やっと戻ってきた――」 親族はみな口をそろえ、胸をなでおろしている。 あの高倉健(本名・小田剛一(たけいち)、享年83)がこの世を去ってから、はや10年が経つ。今年11月10日、生まれ故郷の福岡県中間(なかま)市で「没後10年追悼イベント」が盛大に執りおこなわれた。 【画像】すごい…!撮影で使われた思い出の品が…「高倉健さん没後10年追悼イベント」 まず、高倉の本名である小田家の菩提寺「正覚寺(しょうかくじ)」に11回目の命日にあたるこの日の朝8時半過ぎ、実の妹である森敏子が東宝会長の島谷能成(よししげ)や東映会長の多田憲之といった日本映画界の大物を出迎えた。寺には九州はもとより北海道、果ては中国から駆け付けたという熱心なファンたちが集結している。寺の奥の墓地に大きな小田家代々の墓があり、高倉健こと小田剛一も墓碑にその名がある。それぞれが香を焚いて小田家の墓に手を合わせた。その墓とは別に寺の境内には高倉直筆で「寒青(かんせい)」と刻まれた立派な記念碑があり、銘々がそこに移動して記帳する。姿は見えなかったが、記念碑に俳優の吉岡秀隆の花が供えられ、芳名帳には北野武の名前もあった。 高倉の生まれ故郷である中間市は、江戸時代に黒田藩主が参勤交代する際の休憩地点として栄え、小田家は両替商を営んだ。江戸後期の歌人、小田宅子(いえこ)は高倉の先祖だ。明治以降の中間は筑豊炭田の一角を担い、高倉の父である小田敏郎は県内の大正鉱業の労働部長として鉱員たちを監督した。高倉本人は兄と2人の妹のいる4人きょうだいの次男として生まれ育ち、明治大学を卒業後、東映にスカウトされた。 そんな小田家では、今も実妹の敏子をはじめ多くの身内が郷里の北九州地域に住んでいる。彼らが「戻ってきた」と話すのは、当人の遺骨である。通常は亡くなったあとすぐに墓に納骨されるものだが、高倉のそれは長らく遺族の手元になく、菩提寺の墓にも納められていなかった。それには複雑な事情があった。 1956年の『電光空手打ち』で主演デビューして以来、実に205本もの映画に出演した高倉は、文化勲章を受けた翌2014年11月10日午前3時49分、悪性リンパ腫により、この世を去った。のちに判明したことだが、すでに新作映画制作の準備を進めていたさなかの死であり、関係者は戸惑い、悲嘆にくれた。なかでもショックを受けていたのが、実妹の敏子をはじめとした身内である。姪の一人は亡くなるひと月前にも当人と電話で話し、親族は元気に過ごしているものと信じていた。日本を代表する名優の死は、実の妹である敏子にも知らされなかったのである。 親族が急逝を知ったのは、死の2日後の11月12日のことだ。高倉の遺体は親族にも知らせず、東京・渋谷区の代々幡(よよはた)斎場で密かに荼毘(だび)に付された。密葬を取り仕切ったのが、慶応病院で死を看取った養女の小田貴(たか)(60、のちに貴月(たか)と改名)だった。驚いたのは九州にいる小田家の親戚たちだ。最初に異変を察知した東京在住の甥に取材すると、こう言葉を絞り出した。 「あるマスコミの方から『伯父さんお元気ですか』と意味ありげな問い合わせがありました。それで、そういえば最近伯父から連絡がないな、と気になり、本人の携帯や事務所(高倉プロモーション)に電話したのです。でも電話に出ない。ようやく高倉プロの(元)専務の携帯につながると、『いま火葬場だ』と言うではないですか。驚きました」 いきなり火葬の話を聞かされた甥が戸惑うのは無理もない。こう続けた。 「その時点では、通夜やお寺の手配をいったい誰が仕切っているのか、もちろんそれも知りません。それも(元)専務に聞いたら、『いや、実は養女がいてね、彼女が火葬を取り仕切っている。私もすべてを外されてしまって、詳細がわからない』と言うのです。そのときです。初めて彼女の存在を知ったのは……」 33歳年下の養女の出現に実妹の敏子をはじめ親戚中が愕然としたという。その養女の存在が世間に明らかになったのは、一周忌法要の前後だった。40億円といわれた高倉の遺産を相続した彼女は、小田家の親戚との接触を断った。 そして彼女はこの10年のあいだ、まるで生前の高倉の痕跡を消し去るかのような奇妙な行動に出る。かつて高倉が元妻の江利チエミといっしょに住んできた東京・世田谷の豪邸を取り壊し、同じ敷地に新たな洋館を建てて住んだ。ポルシェやベンツなど高倉の愛車をスクラップにし、東京湾に浮かべていたクルーザーも解体した。極め付きは、生前、高倉が建立し、江利チエミとのあいだの子供の水子供養をしてきた神奈川県鎌倉市の墓まで破壊して更地にしてしまったことだ。そのため高倉の遺骨は納める場所がなくなり、漂流してきたといえる。 もとはといえば遺骨は10年前の火葬の際、養女が大部分を持ち帰り、残りは彼女が密葬の場に呼んだ参列者に分骨したとされてきた。参列者は東宝社長の島谷、東映会長の岡田裕介(いずれも当時)、元警察庁長官の田中節夫、読売新聞最高顧問の老川祥一、映画監督の降旗康男と高倉プロモーションの秘書の6人だけだった。 ◆内ポケットには札束が その後、親族たちは養女に対して、「菩提寺に納骨したいので、せめて分骨してほしい」と懇願してきた。しかし、養女はすべて弁護士任せで、「貸し出すならいい」と言い、現在にいたるまで親族と会ってもいない。「高倉の遺言に基づいて散骨した」と語ってきたが、当初、高倉から預かったと言っていた遺書も見せず、遺族たちは本当に散骨したのか、それすらもわからずじまいだった。 この間、七回忌を機に東宝の島谷が実妹の敏子に遺骨を返還した。そして今度の没後10年を迎えるにあたり、高倉プロモーションの秘書が預かっていた遺骨がようやく戻ってきたのである。 「密葬に参列された方たちの多くは不帰(ふき)の人となっており、問い合わせることもできません。秘書の方の分が戻ってきたことで、われわれはほっとしています」(甥の一人) 没後10年は、大きな節目となったかもしれない。正覚寺での法要のあと、午後1時からは、地元のなかまハーモニーホールで「高倉健チャリティ映画鑑賞会」が催された。なかまハーモニーホールは、高倉が元オリックス監督の仰木彬とともにこけら落としのトークショーを開いた思い出の場所である。1000人収容できる会場は満席、熱烈なファンで埋まった。遺作『あなたへ』の上映に先立ったトークイベントには、これまで多くの高倉健映画の版権を相続した養女に気遣ってきた映画関係者たちが参加した。司会は佐賀県ゆかりの女優、杉田かおる、実妹の敏子とともに東宝会長の島谷や東映会長の多田、映画監督の木村大作がステージに上がり、高倉の思い出を語った。なかでも圧巻だったのが木村だ。高倉からプレゼントされたジャケット姿で登壇し、内ポケットに札束が入っていた秘話まで披露した。イベント終了後、敏子が語った。 「実は会場には江利チエミさんの親戚の方もいらしていました。イベントのことをお聞きになったのでしょうね。電話を頂戴したので、『ぜひいらしてください』とご招待して3人お見えになりました」 会場には、江利チエミの往年の名曲「テネシー・ワルツ」がBGMとして流れた。テネシー・ワルツは高倉が高校時代に聞き、チエミのファンとなったきっかけの曲だという。わざわざ歌を録音し、妹の敏子に「これで英語の勉強をしろ」とテープを手渡すほどの入れ込みようだった。 穏やかな没後10年イベントで上映された『あなたへ』のクライマックスは、高倉が田中裕子の演じる妻の遺骨を故郷の長崎県平戸島の海に散骨する場面だ。大滝秀治演じる老漁師の漁船で沖合まで出た高倉が、青い海に愛妻の真っ白な骨を撒く。そのシーンが映し出されると、客席のファンは涙をぬぐいながら、スクリーンをじっと見つめた。 ひょっとすると、養女が高倉の遺骨を散骨したと言い出したのは、実はこの映画を観て真似ているのではないか。ふとそんな思いが頭を過った。(敬称略) 『FRIDAY』2024年12月6日号より 取材・文:森 功(ノンフィクション作家)
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