武田信玄に逆らった知勇完備の嫡男であり、真の武田家3代目【武田義信】
武田太郎義信(たけだたろうよしのぶ)は、成長してから信玄と意見が対立し、結果的に若くして死に至った悲哀の武将である。その履歴などはほとんど語られることはないが、初陣から激しい戦闘だった第4回川中島合戦などでの奮闘が伝えられ、知謀勇気を併せ持ち、家臣団からも「文句のない武田家の御曹子(おんぞうし)」と嘱望された存在であった。 義信は天文7年(1538)、信玄と三条夫人の間に嫡男として誕生した。武田家にとっては、後に信玄の継承者になる勝頼とは異なり、甲斐源氏の正当な血筋を持った信虎(のぶとら)・信玄に継ぐ真の三代目である。13歳の元服も、烏帽子親(えぼしおや)が長老の金丸筑前虎義、理髪役は信玄重臣で後に傅役(もりやく)になる飫富虎昌(おぶとらまさ)が務めた。 この元服で、太郎は義信と改名した。室町12代将軍・足利義晴(よしはる)の諱(いみな)「義」を貰っての改名である。信玄(晴信)でさえ、元服時に将軍家から貰った諱は「義晴」の「晴」であって「義」ではなかったことを考えれば、義信への信玄や家臣団の期待は大きいものがあった。元服した義信は、小姓に長坂源五郎を配され、豪傑として知られていた雨宮十兵衛家次ほか80騎の同心・被官を付けられた。1人前の武将となったのである。 義信の初陣は16歳。天文23年(1554)7月、信州・佐久方面の攻略戦であった。義信は、槍の名人といわれた小山田備中昌行(郡内の小山田氏とは別の甲府・小山田氏)と共に上杉謙信に通じようとしていた佐久の国衆の城9つを1日で攻め落としている。まさに父・信玄の期待に応える初陣であった。この知らせが小諸城に届くと、立て籠もっていた将兵は城を棄てて逃げ出したが、義信と小山田軍によって追い詰められ、300余人もの敵兵が討ち取られた。義信が攻め取った小諸城は、武田の城として山本勘助が築城した。この2年後に義信は、駿河・今川家から義元の娘を娶った。 「御曹子」と家臣団から呼ばれ嘱望された義信は、頭脳明晰で明るい人柄に加えて、豪気もあり合戦の度に率先して戦い多くの手柄を立てている。義信は、信玄にとって頼もしい跡取りの存在であった。 ところが、父子の間に暗雲が立ち込める。永禄4年(1561)9月10日、第4回川中島合戦は、キツツキ作戦を取った武田軍はその作戦を見破られ、上杉軍から先制攻撃をされるという激戦になった。この戦いで義信は馬上の謙信と2度に渡って太刀打ちし、自身も2ヵ所を傷付けるほどの働きぶりであった。しかし、信玄が義信を合戦場に置き去りにしたのでは、という疑念が義信に湧き、この頃から父子の仲が悪くなったという。 さらに、前年には駿河・今川義元が桶狭間で織田信長に討たれ、その後の駿河の領有を巡って信玄・義信父子の意見が合わなくなった。それに加えて、信玄は信長の養女を弟・四郎勝頼に娶るという。こういういくつかの問題が重なって、永禄7年(1564)7月、義信は飫富虎昌らと謀叛を企てたとして甲府・東光寺に幽閉される。「義信衆」も多くが成敗された。この時の義信の戦略は、三国同盟を維持しながら、武田軍団は飛騨から岐阜に侵攻し、織田・徳川を葬り去る、というものだったという。その3年後の永禄10年(1567)10月19日、義信は自殺した(病死説もあり)。30歳の惜しい最期であった。
江宮 隆之