<京都・センバツ初出場物語>/3 京都商(第10回・1933年) 名投手沢村、うなる剛腕 /京都
古都に現れた伝説の名投手・沢村栄治を擁して京都商(現京都学園)が初めて甲子園出場を果たしたのは、1933年の第10回センバツだった。 記念大会で従来の倍近い32校が出場した中でも、沢村の豪速球と大きく縦に割れるカーブは輝きを放った。関西学院中との1回戦で、いきなり14奪三振。大正中との2回戦で15個、1―2で惜敗した明石中との準々決勝でも9個の三振を奪い、大会優秀選手に選ばれた。 34年春も京都商は甲子園出場を果たし、沢村は2試合で計29奪三振。2回のセンバツ計5試合で、奪三振率(完投した場合の平均奪三振数)は13・70に達した。この年の秋、全日本に加わり、714本塁打のベーブ・ルースらが参加した米大リーグ選抜を相手に完投して0―1で惜敗。黎明(れいめい)期のプロ野球で63勝22敗、防御率1・74、ノーヒット・ノーラン3回などの成績を残した後、太平洋戦争さなかの44年、27歳で戦死した。 京都商は3回目の出場となった40年春、神田―徳網のバッテリーを軸に、粘り強い戦いで京都勢初の決勝進出を果たした。0―2で岐阜商に敗れたが、準優勝旗を持ち帰った。戦後は73年が最後のセンバツ出場となっているが、81年夏には再び全国の舞台で準優勝に輝いている。【矢倉健次】=随時掲載