【トップインタビュー】大阪取引所・社長の横山隆介さん
武家の「江戸」、商売の「大阪」。 そして北浜は商品・市場取引のルーツだった
1月にスタートした新NISAをきっかけに高まる投資熱。江戸時代から日本の商品・市場取引のルーツでもあった中央区北浜。その地に建つ大阪取引所は、市場デリバティブ取引を扱う国内唯一の総合取引所でもある。同社は大阪人にとってどんな存在なのか。横山隆介社長にインタビューした。 【トップインタビュー】大阪取引所・社長の横山隆介さん
─大阪取引所はなぜ、北浜にあるのか。 江戸時代には、江戸が武家の町だった一方で、大阪(船場)は商売の中心地として栄えてきた。城下町だった船場地区は、高麗橋や平野橋など商売の種類ごとに町の名前が短冊のように連なる特徴的な街並み。その中で、北浜はフカヒレやアワビなどの干物を売買する「俵物会所」や、金や銀の取引相場を決める「金相場会所」などが設けられ、取引をする場所として栄えた。 北浜の西側に位置する堂島では、天下の台所として各藩の米蔵が建ち並び、世界初と言われる〝米の先物取引〟も行われていた。 ─大阪が取引の発祥の地だったわけだ。 そう。現在は御堂筋が大阪都心部の大動脈だが、昔は大阪取引所のある堺筋がメインストリートとして最も栄えていたと聞く。その場所に明治11年、「大阪株式取引所」の名称で東京に次ぐ証券取引所が開設された。昔の地図からは北浜周辺に証券会社がずらり立ち並んでおり、目に見える証券街だったようだ。 ─取引所の正面にある銅像は。 大阪取引所の発起人の一人でもある五代友厚公だ。〝東の渋沢(栄一)、西の五代〟と称された日本を代表する経済人だ。ちなみに大証(大阪証券取引所)と同じ読み方の大商(大阪商議所)にも、五代公の銅像がある。 ─昔の取引所の立会場は活気に満ちていた印象がある。 当時の立会場には、証券会社の市場部員が1000人ぐらいひしめいていた。あまりにも人が多過ぎて現場では声も聞こえない。そこで考え出されたのが、ハンド(手)サインだった。 例えば、指でカタカナの「ト」を書き、次ぎに両手でハンドルを握る仕草をすれば「トヨタ自動車」。指を3本立て、その手を頭の前から後ろに持っていくと「三越」といった具合だ。