伝説のメルセデス・ベンツ「シルバーアロー」はなぜ勝ちまくれた? 公道最高速430キロ超を記録した名選手「カラッチオラ」の活躍を振り返ります
戦前のレースシーンと最高速チャレンジに燦然と輝く偉業
メルセデス・ベンツのモータースポーツを語るうえで、名監督アルフレッド・ノイバウアーと名ドライバー、ルドルフ・カラッチオラの関係性はとても重要です。そこで、両者の関係についてじっくりと解説していきます。今回は、大事故からの選手生命の危機を乗り越えたカラッチオラが、W25およびW125「シルバーアロー」でレースシーンを席巻するまでと、世界スピード記録への挑戦を紹介します。 【画像】最高速記録は2017年まで破られず! メルセデス・ベンツ「シルバーアロー」と「ストリームライン」を見る(30枚)
妻シャルリーの死のショックを乗り越えて
1934年2月2日、ルドルフ・カラッチオラに第2回目の衝撃が襲った。つまり、妻のシャルリーが友達と日帰りのスキーツアーに出かけたまま、旅行先から帰って来なかったのであった。真夜中前になって、カラッチオラの家の呼び鈴が鳴った。ドアを開けるとシャルリーとともに出かけた山のガイドがドアの前で震えて立っていた。 「ウルデンフルクリで起こった雪崩にシャルリーがさらわれた。我々は彼女を探し出したが……、死んでいたんだ」 と彼は言った。カラッチオラはスイスの彼の家の中に数カ月間閉じこもった。しかし、彼は立ち直り1934年5月24日にはメルセデス・ベンツのレーシングカー「W25」のステアリングを再び握りしめ座っていた。 このことにはアリス・ホフマン・トロベック(愛称は“ベビー”・ホフマン)の功績に負うところが大きかった。彼女はレーシングドライバー仲間のルイ・シロンの女友達であったが彼と別れ、カラッチオラとスイスに住むようになったのだ。
カラッチオラがヨーロッパ・ドライバーズチャンピオンに!
1932年10月、フランスに本拠を置くA.I.A.C.R.(現在のFIAに当たる国際自動車クラブ連合機関)が1934年から1936年までの新しいGPフォーミュラを発表し、重量は750kg以下に規定した。 ベルリンのアフスのテスト走行で、カラッチオラは新しい750kgフォーミュラのメルセデス・ベンツW25でワールドクラスタイムを出し、ついにメルセデス・ベンツとの契約を完璧なものとしたのであった。新聞は大見出しを付けた。「カラッチオラ、再びトレーニングをする」/「カラッチオラがレコードを出す」。 もちろん、レースでの勝利は待たねばならなかった。フランスGPではカラッチオラのメルセデス・ベンツはガソリンポンプが動かなかったし、ニュルブルクリンクでは彼がスピードを出し過ぎ、そしてベルンのスイスGPでは彼は疲労のため失神しレースをリタイア、彼のクルマをイタリアのルイージ・ファジオーリが引き継ぎ優勝した。 しかし、1935年の全14 GPレース中、計7回(うちヨーロッパチャンピオンの懸かったGP 5レースで計3回)、メルセデス・ベンツの勝利をルドルフ・カラッチオラが勝ち取った。1935年、彼はレーシングカーの初回ヨーロッパ・ドライバーズチャンピオンとなった。ファジオーリはカラッチオラが自分より速い男としては認めたくなく、アウトウニオンへと移って行った。
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