日記を「練習」と「本番」に分ける斬新な試みから立ち上がる自画像(レビュー)
日記の練習とは何ぞや。その日にあったことを書きとめるのが日記だ。その練習とは、どういうことなのか。 読み出してしばらくしたらわかった。「練習」パートを読み進めていたら、突然「本番」パートが現れたのである。その斬新さにしびれた。いや、おなじような行為は、ものを書く人間だったら誰しもやっている。たとえば取材メモをあれこれ書き散らしておいて、あとから見返し、情報を取捨選択して道筋をととのえた文章を書くというようなことを。でもそれを日記でやるのか。短歌も小説も童話も書く著者のフリースタイルぶりがきらきらしている。 「練習」のパートは、短文のなかににぎやかな音がちりばめられている。目の前にいる新幹線が自分の乗るやつではないと気づいて「ひゅ!」と息を吸い、ストローの飲み物の最後を「ずごごご」と言わせる人のことを苦手に思わずやり過ごせるように訓練し、宇宙館では「ホワァ~フワャ~」的なBGMを聴く。人の肉声もたくさん書きとめられている。一方、「本番」パートは内心の語りだから、すっと静かな世界に入るし、文章のひと息が長い。この両面があることで、著者が立体的なキャラクターとして立ち上がってくる。 自分の感情を正面から観察している。ずっと続くイライラも、突然大泣きしてしまうような不安定さも、イレギュラーな状態として描かず、その感情をなで回すように記録する。たいていの人は感情が揺れている状態を「よくないもの」と位置づけ、ニュートラルな状態の自分を描こうとするけれど、ニュートラルな自分なんて幻想なのだ。著者も、読者も、きょうはきょうの、新しい自分を始めていい。自分を枠にはめないとは、こういうことなのかもしれない。 威勢がよくて、気弱で、わがままで、純で、こわがりで、大胆。解像度の高い自画像を見ているうちに、読んでいるわたしの気分もリフレッシュされていく。 [レビュアー]渡邊十絲子(詩人) 協力:新潮社 新潮社 週刊新潮 Book Bang編集部 新潮社
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