京都の伝統工芸はなぜ「絶滅の危機」に瀕しているのか:職人70人以上にヒアリングしてわかったこと(後編)
職人が作る焼き物は100円ショップの食器と何が違うのか
今回の調査は、本当に沢山の方々の支援があり、多くの気づきや学びを得ることができた。まだまだ表面しか知ることができていないので、第二弾の調査も敢行したい。形あるものは必ず失われていくが、それでも次の時代に文化を残すことの意味について考えたいと思う。 例えば、ある職人の方ははっきりとこういった。 「自分が作っているものについては、絶対に明治時代の職人が作ったものの方が質は高い。それは制作により多くの時間をかけることができるからだ。それに何より、一流のものを欲しがる人たちがたくさんいた。一方で、今の時代はやらなければならないことも多い。一つ一つの作業にかける時間や注意力は減るから、質も落とさざるを得ない。自分のことで手一杯だから後進の育成は夢のまた夢。給料も多く支払えないから、人材も集まりづらい。自分でも最善を尽くせていないのはわかるが、何より悲しいのは、そうした質の低下にお客さんは気づかないことだ」 全ての工芸品に当てはまるものではないにせよ、この人の発言は筆者にはショックだった。ただ、よく考えれば自分の身にも覚えがある。筆者の上司やお客さんの中にも、非常に厳しい人が多くいた。その人と仕事をするときには自然と緊張感もあったし、変なところでミスをしたら叱られた。一方で、「なんでもいいよ~」という人と仕事をするときには、手を抜くわけではないにせよ、「これくらいにしておこう」という気持ちにもなった。対象がものであれ、仕事であれ、仕事をする人だけでなく、それを享受する人のこだわりもまた重要であろう。 しかし、なぜこだわりがなくなってしまったのだろうか。それは、工芸だけでなく文化全体が、「なぜ工芸は重要なのか、なぜ文化は重要なのか」という社会からの問いに答えられていない側面もある気がする。「文化は大事だ」という命題に、真っ向から反対する人はそういない。しかし、なぜ大事なのか? という問いにシンプルに答えられる人は少ないようにも思える。それは、そもそも「文化」という言葉の定義が広範で、正直なんでも文化に含まれる事情も多分にあるだろう。 これはあくまでも筆者の個人的な仮説だが、文化とは「人間的な繋がり作りに必要なもの」と定義できるのではないか。例えば、京都の焼き物は一つ一つが職人の手によるもので、まさに伝統工芸と言えるものであろう。その一方で、近くの100円ショップに出かければ、陶器も多く売られている。中には、デザインが凝っているものもあり、遠くから2つを見比べた時に絶対的な自信を持って違いを判別できるかわからない。そして多くの人が100円ショップで売られている陶器に機能的に満足する場合、その何十倍もの価格の手作りの焼き物をわざわざ買わないであろう。 しかし、そうした単純な製品比較のほかに、筆者は以前こだわり消費という表現を使用したが、「自分はこの職人さんの作品が好きだ」「地元の職人が作ったものを応援したい」といった、「経済合理性だけではない価値」というものが出てくる。そうした価値の源泉には、「繋がり」があると思う。京都の焼き物がすばらしいのは、優れた技法はもちろんだがそれだけでなく、焼き物を作った職人、何百年以上も続く焼き物の歴史、そして、それを残してきた京都という街の物語が、一つの器に凝縮されているからであろう。 例えば、ダイソーなど100円ショップの器を手に取っても、(少なくとも私は)人間的な縦と横の繋がりを感じないので、私にとってその器は文化ではない。一方で、それを使うことで、製造や輸送にかかわる人々や、あまたいる店員の生活、更には、ダイソーの創業者の創業までの歴史を想起できる人がいれば、その人にとって100円ショップの器は文化になりうる。 こうした仮説にはまだまだ肉付けが必要だが、グローバル社会・情報社会において、伝統文化を知ることは様々な文化へのパスポートとなる。筆者のような商社の人間や外国で活躍していく人にこそ、知ってほしいテーマである。 ※※※ 本稿で紹介した「京文化のRed Data Book」等に関する問い合わせは、筆者が代表を務めるCulpedia(https://culpediajp.com/)まで。
G7/G20 Youth Japan共同代表/東京大学先端研創発戦略研究オープンラボ(ROLES)連携研究員 徳永勇樹