戦力外の元広島の四番・小早川毅彦がヤクルトで球史に残る開幕戦3連発!【逆転野球人生】
ヤクルトで鮮やかな復活
96年10月21日にヤクルトと契約合意すると、11月で35歳になるベテランは自ら希望して西都秋季キャンプに参加する。私生活では離婚も経験、文字通り裸一貫の再スタートだ。ガムシャラにバットを振り込み、合流1週間で体重を5kgも落とした小早川には運も味方した。その年限りで四番一塁のオマリーが退団。ドラフト会議では全日本の四番・松中信彦の獲得に失敗。巨人を自由契約になった落合博満の争奪戦にも敗れた。つまり、ぽっかりと空いた一塁のポジションで小早川の生きる道が見つかったのだ。エリート街道を歩み、プロでも1年目からクリーンアップを打った35歳は、人生で初めて試合出場に飢えていた。 「ベンチ座って試合を見ていたんですよ。あ、見とったらいけませんね。試合は参加せんと(笑)。広島市民球場には独特の雰囲気があるんですが、その時がまさにそうだったんです。カ~ッと暑くて、試合もすごい盛り上がっていましてね。自分もあそこに立ちたいなと、13年いて、やっと純粋にそう思えたんです」(週刊ベースボール97年3月24日号) 97年、ヤクルトの開幕戦の相手は宿敵・巨人だ。前年優勝チームの四番は、西武からFA移籍してきたPL学園の後輩で年俸3億4500万円の清原和博。自由契約の果てにヤクルトに流れ着いた年俸2000万円の小早川とのコントラストは残酷ですらあった。しかも、相手投手は3年連続で開幕戦完封中の前年の沢村賞投手・斎藤雅樹である。 戦前の予想は巨人絶対有利。だが、男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない――。小早川は前年まで対斎藤は70打数22安打で打率.314、4本塁打と決して苦手な投手ではなかった。背番号7をつけた新天地でのオープン戦では、全16試合に出場して打率.317と仕上がりも上々だ。野村監督は、法大でも広島でも1年目に活躍した小早川に「お前は1年目はいいんや。自信も持ってやってこい」と4月4日の開幕戦に「五番一塁」で送り出す。