戦力外の元広島の四番・小早川毅彦がヤクルトで球史に残る開幕戦3連発!【逆転野球人生】
戦国武将・小早川隆景の血を引く背番号6は、5月8日の大洋戦で法大の先輩・山本以来という、球団の新人では16年ぶりにスタメン三番で起用されると、いきなり2安打3打点。3割を超える打率だけでなく、6月19日の大洋戦では10号アーチと快進撃は続いた。この時期、球界はちょっとしたタケちゃんフィーバー状態で、『週刊ベースボール』84年7月23日号では早くも表紙に抜擢。巻頭カラーグラビアページを「ポスト・山本浩 約束された次代の“ミスター赤ヘル”」という見出しとともに飾っている。合宿所には、毎日20~30通のファンレターが届き、「プロ入り前に女性関係はすべて白紙にして、真っ白なカラダで入団しました」なんて笑ってみせるプリンス。そのアイドル人気の裏で、小早川は懸命に練習に打ち込んだことを先輩選手の達川光男は証言している。 「キャンプのときのアイツの練習量を知ってますか? 三塁コンバートのために、毎日居残りのノックを受けていた。外野と一塁のノックが終わったあとにね。1日200~300本。口でいうのは簡単だ。どんなにシンドイか。並みの人間にはできやしないですよ。アイツは毎日グチもこぼさず、文句もいわずにやっていた。帰りのバスに乗るのはいつも最後。ドロドロのユニフォームでね。あの姿を見た頃から、小早川のことを認めてますよ」(週刊ベースボール84年9月3日号)
1000安打を花道に戦力外通告
小早川は愚直に山本や衣笠の背中を追った。23試合連続ヒットも記録して、長嶋茂雄以来の新人打率3割が現実味を帯びるも、9月に入ると息切れ。それでも112試合、打率.280、16本塁打、59打点という成績で広島のリーグ優勝に貢献。チームは日本一に輝き、小早川も新人王に選出される。初めての契約更改では140%アップの推定960万円で一発サイン。「貯金なんか……。カネは天下のまわりものというから、使いますよ。これからドンドン稼げばいいんだから」なんて豪快に笑う赤ヘルのプリンス。作家の山口洋子は、そんな小早川を可愛がり東京で好物の天ぷらを度々ごちそうした。2年目には二塁起用もありながら打率.290。86年2月には歌手の高橋亜貴子とのデュエットでレコード『魅惑のドレス』をリリースしている。偉大な先輩たちの後ろで小早川はノビノビとプレーした。 「コウジさんとキヌさんの2人が大きすぎるんですよ。ボクらがベンチにいても、あの2人がなんとかしてくれるんじゃないかと思いますもんね。ボクらとして一番怖いのは2人のケガですよ」(週刊ベースボール86年7月7日号) そして、86年のリーグVを置きみやげに山本が現役引退、翌87年限りで衣笠もユニフォームを脱ぐ。小早川の87年の打撃成績は124試合で打率.286、24本塁打、93打点。勝利打点16はセ・リーグ最多だった。法大の先輩・江川卓からサヨナラアーチを放ち、怪物投手に引退を決意させた一撃は話題になった。89年はプロ6年目で自身初の打率3割をクリア。主軸打者として決して悪くない数字だが、巨人の原が王・長嶋の後継者として物足りないと批判されたように、小早川も山本や衣笠に代わる新たなチームの顔として大きすぎる期待の中で苦しむことになる。もともと小早川は中距離ヒッターだが、「打率は低くてもいいから一発を打てるバッターになるべきなのか、それとも本塁打より打率を目指した方がいいのか」と自身の打撃スタイルにも迷いが生じた。 91年は山本浩二監督が初Vを達成するが、小早川は打率.259、7本塁打とプロ入り以来最低の数字に終わる。区切りの10年目、93年は打率.269、17本塁打と多少持ち直したかのように思えたが、チームの主軸はすでに野村謙二郎、前田智徳、江藤智といった若い世代が担っていた。年々出番を減らし、96年はわずか8試合(8打席)で内野安打1本のみの打率.125に終わる。そのシーズン、初めて出場選手登録されたのは閉幕も近い9月21日。あと1安打に迫った通算1000安打を最後の花道として考える球団の思惑も当然あったはずだ。10月1日の中日戦で記録を達成した2日後、10月3日に球団から戦力外を告げられ、「引き際としていいタイミングじゃないか」とフロント入りを勧められる。それでも、本人は現役続行を目指し、「ヤクルトさんの方に聞いてみてくれませんか」と野村克也監督のもとでのプレーを希望するのだ。野村監督は以前から、ベンチスタートが多くなった小早川によく「なんだ、きょうも出ないのか。ウチに来いよ」と冗談交じりに声をかけていた。