“敬天愛人”のイメージは正しくない? 江戸のテロ集団を主導した西郷隆盛
派遣された「志士」たち
板倉清兵衛宅に浪士団が押し入る、一カ月ほど前のこと。江戸から遠く離れた京都三条の料理屋において、ある会合が催されていた。出席者は薩摩藩士の四人、西郷隆盛、大久保利通、益満休之助(1841-1868)、伊牟田尚平(1832-1868)、それに既に過激な尊皇攘夷派として一部で知られていた小島四郎(1839-1868)だった。 なんとか武力によって徳川家を殲滅したかった西郷と大久保は、徳川慶喜の知略、すなわち大政奉還によって、相当に追い詰められていた。そこで、最後の手段として思いついたのが、江戸の治安撹乱というテロリズムだったのである。江戸で暴れて、旧幕府が反撃してきたところで、それを理由に京都で開戦するという手はずである。 かくして、益満と伊牟田、そして小島は、テロの先導役に選ばれ京都から江戸に向かうこととなった。江戸に到着した彼らは、提供された薩摩藩邸を拠点に、土佐の志士たちや、腕力の強そうな江戸のならず者を集め、浪士隊を結成した。リーダーは、小島四郎である。この小島こそ、後に「赤報隊の相楽総三」として歴史に名を残す人物だった。 さすがに11月4日の放火は実行されなかったが、彼ら浪士隊は「順調に」テロを繰り返していく。江戸に住む人々は平穏な日常を奪われ、募る不安がいつしか旧幕府の役人たちへの不満に転化していった。現代で言えば、犯罪の多発が警察への批判に繋がるようなものだろう。 しかし、江戸市中の取締を担っていた庄内藩が、遂に堪忍袋の緒を切らす。12月25日、三田の薩摩藩邸を砲撃したのである。旧幕府側は、西郷と大久保の策に見事にはまった。命からがら藩邸を脱出した相楽総三らは、この後、軍艦で京都に向かうこととなる。
開戦に狂喜した西郷
古今東西、テロリズムほど卑劣な行為はない。江戸時代も然り。だから、庄内藩は薩摩藩邸への攻撃が認められないならば、江戸市中の警備役を降りるとまで言ったのである。もちろん実害のあった江戸の人々も、薩摩藩のやり方に心から憤った。 京都において、「旧幕府側から薩摩藩邸への攻撃があった」との報を受けた際、西郷は次のように反応したという。 西郷は其の時御所の後ろの何とか云つた大きな寺の門前の、素人屋とも宿屋ともつかない家に泊つて居たが、私が出掛けて見るとにこにこ笑ひながら「谷さん漸う漸う(ようよう)始まりましたよ」と云ふ ― 『日本及日本人 南洲号』 ここに引いた言葉は、旧土佐藩士の谷干城(たてき)(1837-1911)によるものである。西郷が笑っていたのは、もちろん戦争の名目が手に入ったからだった。浪士隊のテロに関する話題をするとき、彼はいつも笑っていたらしい。 西郷の思想は、よく「敬天愛人」のフレーズで語られることが多い。しかし、その「愛人」は「万人を愛する」の意ではないようだ。このとき、西郷は40歳。彼は、テロで苦しんだ江戸の庶民に思いを致すことはできなかった。 京都に戻った相楽総三は、西郷に激賞されるという栄誉に浴する。喜び勇む彼は、赤報隊を結成し、「年貢半減令」を布告しながら中山道を東進した。その後、「偽官軍」として処刑されるのは、ご存じの通りである。 伊牟田尚平は、京都で頻発していた辻斬り、強盗が部下によるものとされ、2月に切腹し果てた。藩邸を焼討ちされた際に捕まり、勝海舟に預けられていた益満休之助は、山岡鉄舟(1836-1888)に駿府まで同伴し、江戸城無血開城に「貢献」した。その後、上野戦争で流れ弾が当たって死んだと伝えられるが、詳しい最期はわかっていない。 浪士隊の中心人物三人は、揃って明治の改元を目にすることなく没したのだった。これがただの偶然なのかどうか、今となってはわからない。 (大阪学院大学経済学部教授 森田健司) 1974年兵庫県神戸市生まれ。京都大学経済学部卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(人間・環境学)。現在、大阪学院大学経済学部教授。専門は社会思想史。特に、江戸時代の庶民文化・思想の研究に注力している。著書に『江戸の瓦版』、『明治維新という幻想』(いずれも洋泉社)、『石門心学と近代――思想史学からの近接』(八千代出版)、『石田梅岩』(かもがわ出版)、『なぜ名経営者は石田梅岩に学ぶのか?』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『外国人が見た幕末・明治の日本』(彩図社)など。近刊に、作家・原田伊織氏との対談『明治維新 司馬史観という過ち』(悟空出版)がある。