中学卒業前に渡仏しパリSGの入団テストに合格も…3カ月の短期留学が海外志向をかき立てた【松井大輔が激白】#7
【流浪のファンタジスタ 松井大輔が激白】#7 今年2月に23年のプロ生活に終止符を打った。流浪のサッカー人生の始まりは、中学3年時のパリ・サンジェルマン(パリSG)での3カ月の短期留学だろう。そこで彼は「異文化に適応しながらたくましく生き抜くことの大切さ」を知ったのだ。 (取材・構成=元川悦子) ❤美人妻を見る❤ 松井の妻はかつて一世を風靡した誰もが知る超絶人気女優!! ◇ ◇ ◇ 初めてパリへ赴いたのは1997年1月。進学が決まっていた鹿児島実業高校の恩師・松澤隆司総監督(故人)に知人を紹介され、父・一雄さんとともに渡仏。タクシーで練習場に向かった。 「まずスタッフに言われたのは『なぜテスト生がタクシーで来るんだ?』という皮肉でした。15歳の自分は大いに面食らったことをよく覚えています」といきなりカルチャーショックを受けた。 「父が帰国して1人になってからはメトロとバスで通いましたが、最初はバスの乗り方が分からず、最寄り駅から練習場まで30分、歩く羽目になりました。やっとの思いで着いたが、誰もいない。『急に休みになったんだろう』と考えてアパートに帰ったら、『おまえには口と耳があるだろう。どうして人に聞いて確かめないんだ』と怒られた。その日は時間変更になっていたんですよね……。言葉も通じないし、食事も硬いフランスパンばっかり。困ったことが続きました」と苦笑する。 実は、この留学はパリSGへの入団テストだった。本人も周囲も知らなかったが、最終的にオファーが届いた。が、父には「まず勉強することが大事」という強い信念があり、パリに残ることを許さなかった。 結局、鹿実に行くことになったが、貴重な体験が松井の海外志向をかき立てたのは事実だろう。 ■鹿実2年夏休みに下宿先から逃げ出した 鹿実での3年間は一筋縄ではいかなかった。 ドリブルに強いこだわりを持ち、時にエゴを出し過ぎては松澤総監督に怒鳴られた。猛烈な走りの練習を課され、心身ともに限界寸前だった。 鬱憤が積もりに積もった高2の夏休み。松井は下宿先である松澤総監督の家を出て、黙って京都の実家に戻ってしまったのだ。 「自分の部屋で寝かせてくれ」と母・美幸さんに言うと、そのまま倒れ込むようにして眠ってしまったという。 「でも、父は許さなかった。僕を叩き起こし、その日のうちに鹿児島へ連れて行き、一緒に松澤先生におわびしました。『可愛い子には旅をさせよ』と言いますけど、当時の父はそんな心境だったんでしょうね。2人の息子の親になった今、何となく分かります」と神妙な面持ちで言う。 数々の苦悩を乗り越えて99年度の高校サッカー選手権で大活躍。鹿実は決勝(2000年1月8日)で千葉・市立船橋に敗れて準優勝に終わったものの、エレガントなプレーで見る者を大いに魅了した。 「自分をギリギリまで追い込んだ鹿実時代があったから、長く現役生活を送れたのは間違いないと思います」 そう言って爽やかな笑顔を見せた。(つづく) (取材・構成=元川悦子/サッカージャーナリスト)