ゴーン逃亡 会見で浮かぶ「和の論理」の困難
保釈中だった日産自動車の前会長、カルロス・ゴーン被告が昨年末、ひそかにレバノンに出国しました。年明け後、出国先のレバノンで開かれた会見では、「自分は無実」であり、「日産と検察の策略」などと主張。日本の司法制度を強く批判しました。 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、ゴーン被告の会見を見て「日本社会に対する敬意が感じられなかった」と指摘します。しかし、そのゴーン被告が日本の大企業を立て直したという事実について考えさせられたといいます。若山氏が独自の「文化力学」的な視点から論じます。
ゴーン逃亡のリアリティ
新年のビッグニュースは何になるだろうかと思っていたら、年末に飛び込んできたのが、カルロス・ゴーンの海外逃亡劇であった。 そして記者会見。世界のマスコミを前にして、日本の司法を非人道的であると非難し、自分は被害者だと主張した。あまりの口八丁手八丁に、見ていて気分が悪くなったという人もいる。日本人は、こういった強い自己主張にアレルギーがあるのではないか。 経済事件は立証が難しく、有罪となるかどうか半信半疑であったが、これで彼は紛れもなく犯罪者となったわけだ。しかも保釈中に、もと米軍の特殊部隊員を使って、中東のレバノンへ逃げるというのだから、日本人には考えつかない大胆さである。 アメリカの大げさな犯罪映画はあまりリアリティがないのかと思っていたが、実はあったのだ。逆に、日本のテレビドラマで、犯罪者が河原か海辺かビルの屋上で告白して改心するのは、海外ではリアリティがないであろう。つまり海外のリアリティと国内のリアリティは大きくズレている。考えてみれば「ゴルゴ13」というマンガは、国際的なリアリティの上にのっていることが特徴なのだ。
日本的経営の「和の論理」
それにしても彼の会見からは、日本社会に対する、敬意、感謝、愛情といったものがひとかけらも感じられなかった。長いあいだ仕事をして高額の報酬を得てきた社会に対するそれなりの敬意は、国籍を問わず、まともな人間なら少しは抱く感情ではなかろうか。 逆にいえば、日本人は社会(いわゆる世間)への敬意がありすぎるのかもしれない。何か成果を上げたスポーツマンにインタビューすれば、誰でも「周囲の人のおかげです」と感謝の言葉を口にする。海外と日本では正義の基準が異なるようだ。海外の社会は「主張の論理」で構成され、日本の社会は「和の論理」で構成されている。 一つ考えさせられたことは、ゴーンのような人間でも大企業を立て直すことができるという事実である。いや、彼のような人間にしかできなかったという悲しい事実である。 いくつかの企業を立て直してきた僕の尊敬する友人は、昔からゴーンのリストラありきの手法を評価しなかった。今になってその達見が分かるのだが、企業の業績を上げたということだけでその人間を評価してはいけないということである。問題はその方法なのだ。そして逆にいえば、現代の国際的な資本主義と、日本人経営者の仁徳がマッチしていないということかもしれない。「和の論理」が、ドラスティックな経営転換の足を引っ張り、経済停滞を招いているのだろうか。