ゴーン逃亡 会見で浮かぶ「和の論理」の困難
司法と人道
少し遡ってゴーンが逮捕され拘留が長引いたときの日本人の反応は二通りあった。 一つはゴーンの主張にも一理あることを認め、日本の司法の問題点、特に弁護士をつけない取り調べと、自白の強要と、勾留の長さ、いわゆる人質司法を批判するもので、そういった点は国際社会に合わせて改善する必要があるという意見であった。これにも説得力がある。 もう一つは、日本の司法に非人道的なところはなく、むしろ、有罪の可能性が高くなければ逮捕しない、現在は取調べの可視化が進んでいる、司法がしっかりしているから日本社会はきわめて治安が良い、という主張であった。日本人としてはこれにも納得する。むしろ今の司法は犯罪に甘いのではないかという意見もある。 そして今回の逃亡によって、日本の世論は後者が圧倒的となった。久々に登場した悪役によって日本社会が結束した感もある。法務省、特に検察サイドは、日本司法の正当性を強く主張している。
先進国と途上国が共通、日本は特殊
しかしその日本的な司法のあり方が、国際社会で認められたということではない。むしろ逆である。 ゴーンが世界の記者団の前で「自分は前近代的な人質司法の犠牲者である」と訴え、記者団のあいだにそれに賛同するような空気があったことは事実であろう。それはレバノンだけでなく、欧米先進国の記者団にもあったようだ。 仮に、世界に先進国と途上国があるとすれば、ゴーンは途上国を選んで逃げ込んだ。自分の味方が多く、日本に引き渡される恐れがないからだ。しかし日産と提携しているルノーのあるフランスその他の先進国のメディアも、日本の司法に批判的な記事を出しているという。 つまり日本は、途上国ばかりか先進国にも、前近代的な非人道的な司法の国というレッテルを貼られていると考えるべきかもしれない。言い方をかえれば、先進国と途上国のあいだに「日本は特殊」という共通認識があるのかもしれない。 この現実に対して、日本の正義を声高に主張するのは逆効果である。僕は、正義の実態は社会と時代によって異なり、相対的なものであると思うが、平和、人道、信義、地球環境といった、人類に共通する普遍的な正義もあると考える。極東の島国ではこの見極めが難しいのではないか。犯罪の検挙率と有罪率が高いこと、治安が良いことは、ある社会の内部においては説得力があるが、普遍的な人権を論ずる場では説得力にならない。 日本の正義は「和に帰する」ことが基本であり、「主張の共存」を基本とする海外では理解されにくい特殊性があるという現実を見誤ってはならない。