彼女とのセックスで射精したけれど、まだ童貞かもしれない
勃起至上主義に囚われているのは誰か?
当然のことであるが「セックスとは射精をもって完了するもの」という考え方を強化してくるのは女性だけではない。 30歳を越えてくると、男同士の会話で精力剤のことが話題に上がってくることが増えるようになった。勃起力を高めるには亜鉛が効くだとか、エビオス錠が効くだとか、海外から輸入したバイアグラが一番すごいんだとか。男性器は勃ってなんぼ、セックスは挿入して射精してなんぼ。そうした前提が問い直されることがないまま、どうしたら男性器を確実に勃起させることができるかの探求だけが進んでゆく。もちろん射精は気持ちのいいものだから出来るに越したことはないとは思うが、勃ったり勃たなかったりするのが等身大の男性器であるわけだから、射精で終わらないセックスについて探求する方向性があってもいいはずだ。 ちなみにどんなときに勃起しないのかというと、相手の些細な発言、たとえばセックスの直前に他の男の話をしてきたことが気になってしまい勃たないときもあるし、単純にセックスをする前にお酒を大量に飲んでいたから勃たないときもあるし、その日は朝から寝不足で血行がよくなくて勃たないときもあるし、長い付き合いの相手であれば日常的な不満が溜まりに溜まっていて勃起どころではないときもあるし、なんなら自分でも理由が全くわからないときだってある。人間の心と同じくらい複雑なのが男性器の心であるわけなのだが、そうした男性器の声に耳を傾けないようにしてしまうのが、亜鉛! エビオス錠! バイアグラァーッ! という勃起至上主義的なノリなのである。
最高に楽しい電車デートで気づいたこと
ここで少し、セックスとは関係のなさそうな話をさせてください。 過去に付き合っていた恋人と、たまに「目的を決めずにただ電車に乗ってどこかに行く」というデートをしたことがあって、それがすごく楽しかった。 ふつうのデートであれば、電車に乗って出かける際には目的とする駅が決まっていて、その駅に着くまではスマホをいじったり、ぼーっとしたりしがちだ。しかし降りる駅を決めずに電車に乗ると、自分たちがどこの駅で降りるのかを決めるために、窓の外の景色を眺め、ひとつひとつの街の印象を話し合い、互いの意見を擦り合わせることになる。 そうしたデートをしてみてわかったことは、たとえ同じ相手と過ごす電車の時間であったとしても、目的とする駅が最初から決まっている場合には、自分がいかに下車駅に至るまでの過程に関心が向いていなかったかということだった。行き先が明確な場合、目的が明確であるがゆえにその過程に関心が向かなくなってしまうということが起こる。それに対して目的とする駅が決まっていない場合には、窓の外の景色を眺めたりしながら自分たちが降りる駅を話し合って決めようとすること、つまりは目の前にいる恋人とのコミュニケーション自体が電車に乗る目的になる。いつもの移動する時間さえも、恋人とのコミュニケーションそのものだと思える時間を過ごすことができるなんて、こんなにも楽しいデートはないのではないかと思った。 どうしてこんな話をしたのかというと、セックスにも全く同じようなことが言えるのではないかと思ったからだ。最初から目的を「射精」と決めつけてしまっていては、その過程には関心が向きにくくなってしまう。「セックスとは射精をもって完了するもの」という考えから離れることができたときに、目の前にいる相手とのコミュニケーションそのものが目的となるような時間を過ごすことができるようになると思うのだ。