日本のトップ頭脳たちが受けた衝撃…「哲学」という言葉が誕生した「意外な背景」
明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。 【画像】日本でもっとも有名な哲学者がたどり着いた「圧巻の視点」 ※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。
そもそも「哲学」ってなに?
本書では「経験」や「自己」、「自然」、「美」などのテーマを立て、日本の哲学がどのような思索を展開してきたのか、その特徴や意義について考え、魅力を明らかにしたいと考えている。本講ではそれに先だって、明治の初めに哲学がどのように受けとめられ、どのような形で受容されていったのか、その苦闘の跡をたどってみたい。それはとりもなおさず、当時の人々──具体的には西周、福沢諭吉、中江兆民を取りあげる──が従来の世界観のどこに問題を見いだしたのか、新たに接した学問、とくに哲学をどのような形で新しい社会のなかに生かそうとしたのかを見ることになるであろう。 私たちはいま、英語の philosophy(ドイツ語の Philosophie, フランス語の philosophie)をためらいなく「哲学」と訳すが、なぜそれが「哲学」と訳されるようになったのか、疑問に思われる方もいるにちがいない。「哲」は言うまでもなく、ことの道理や筋道に明るいことを指す漢字であり、聡いという意味でも使われる。一方、philosophy は、ソクラテスがしばしば使ったと言われているが、ギリシア語の (sophia, 知)と (philein, 愛する)の合成語である (philosophia)というギリシア語を現代語にしたものである。「知を愛する」というのがもとの意味である。 philosophy ということばをどう訳すか、そのことばにはじめて接した人は頭を悩ませたにちがいない。幕末から明治の初めにかけて、「窮理学(究理学)」や「性理学」、「理学」、「理論」、「玄学」、「知識学」などの訳が試みられた。そのなかでもっとも有力であったのは「理学」であった。多くの語学辞書が philosophy を「理学」と訳しているし、明治初期に広く読まれたJ・S・ミルの『自由之理』(中村正直訳)でも「理学」と訳されている。 当時の儒学者に大きな影響を与えた宋学(中国の宋代に興った儒学)、あるいは朱子学は、すべての存在や現象の根底に「理」という普遍的な原理を想定した。そのために「性理学」(理と気、および心性、つまり人間の本性を探究する学)とも、また単に「理学」とも呼ばれていた。当時の人々は、新しく触れた哲学をこの「理学」に重ねて理解しようとしたと言ってよいであろう。 しかし、西周はこの「理学」という訳を採用しなかった。あくまでも「知を愛する」という原義に従い、philosophy を最初「希哲学」と、そしてやがて「哲学」と訳した。 オランダに留学する直前、一八六一(文久元)年に津田真道が執筆した「性理論」に寄せた跋のなかで西は「希哲学」という表現を用いている。帰国したあと、一八七〇(明治三)年ころから「哲学」という表現を使い始めたようである。津田の方は「求聖学」や「希哲学」という訳を用いているが、これらはともに、第1講で触れた周敦頤『通書』のなかの「聖は天を希い、賢は聖を希い、士は賢を希う」ということばを踏まえた訳であったと言えるであろう。