三菱財閥旧岩崎邸 文明開化に現れた洋風住宅は“強い女性”のメタファー
洋館は接客、和館は生活
注目すべきことは、この洋館が和館とつながっていることだ。 接続廊下をわたってみると、木組、襖絵、庭石など、材料も技術も格別である。現在残っているのはほんの一部だが、建築史家の村松貞次郎は、むしろ和館の方が建築的な価値が高いと発言している。 この頃から、日本の富豪たちは広い敷地に洋館と和館を建て、洋館では公的な客をもてなし、日常は和館で暮らすという生活が典型となる。つまり文明開化とは、官庁、事務所、学校、銀行など、公的な洋風建築では、靴を履いて洋服を着て執務するが、自宅に帰れば、和風建築で靴を脱いで浴衣に着替えてくつろぐ、という二重様式を意味したのである。「和魂洋才」は「和私洋公」でもあった。 そして一般家庭でも徐々に和洋折衷が進み、和風の木造住宅で、応接間だけを洋風につくり書斎を兼ねることが普通となる。筆者の少年時代、格の高い住宅地にはそういう家が多かった。
新しく強い女性のメタファー
夏目漱石の小説『三四郎』のヒロインは美禰子という女性で、三四郎はその豪壮な洋風住宅(ゴシック風と思われる)に圧倒される。『虞美人草』のヒロインは藤尾という女性で、バロック風の華麗な書斎に置かれている。洋風住宅は、新しい時代の、気の強い、美しい女性のメタファーであった。谷崎潤一郎の『少年』でも洋館と和館のある豪邸が舞台となるが、洋館には主人公の友人の姉光子が君臨し、このモチーフは『痴人の愛』につづく。永井荷風や川端康成は逆に、取り残されたような住環境において、抑圧されながらも可憐に生きる女性を描いた。 文学において、和風の家は古いタイプの東洋的な男性の力を象徴し、洋風の家は新しいタイプの西洋的な女性の力を象徴したのだ。
様式転換と思想転換
明治期における日本の建築問題は、洋風か和風かという「様式」の問題であった。 大正期から、社会は実用と便利の思想に染まっていく。 床の間のある座敷における銘々膳から、茶の間におけるちゃぶ台の食事が家族団欒の象徴となる。機能主義モダニズムとともに、電気や水道が家庭に入り、土間に置かれた台所は床の上の立式となる。いわゆる文化住宅、モダンリビングである。戦後にはダイニングキッチンのテーブルが家族団欒の象徴となり、そこにテレビが入り込んだ。 こういった変化は、女性解放運動と連動していた。わが国において、建築の洋風化近代化は、女性が社会的な力を獲得していくことと軌を一にしていたのだ。 畳の部屋は、何にでも使える便利な空間として残され、格式のある座敷は、冠婚葬祭など公的な場として残されたが、次第に少なくなりつつある。そこには、和風から洋風への「様式転換」と、様式から機能への「思想転換」とが重なっているのだ。そしてさらに敗戦という「格式崩壊」と、アメリカ流の「物質主義」が重なっている。