84歳の女性は「婚約者」の墓参りを続けていた…特攻隊員になった彼からの手紙に書かれていたこと
■戸籍抹消の朱線を自ら引く 遺品と一緒に両親宛ての手紙が入っていた。 ---------- 楓はよく手紙をくれて、励ましてくれました。小生がいなくなると当分は淋しいと思うから、父母様でよく慰めてやって下さい。写真機と時計を楓に渡して下さい。 ---------- とあった。楓を思いやる少尉の心が溢れている。二人の確かな絆を感じずにはいられない。 昭和20年10月、戦死公報が届く。役場で戸籍係をしていた楓は、自分の手で「林義則」の文字の上に戸籍抹消の朱線を引いた。 亡き人の数に入れるか今日よりは 戸籍の朱線胸に痛しも 「末期の水をとってあげる気持ちだった」 楓はその時の気持ちをこう振り返ったが、残酷なものだ。どんな思いで朱線を引いたのか。楓の悲しみを考えると、かける言葉がなかった。 ■気が付けば手紙を待っていた 遺骨が届いたのはさらに一年が経った昭和21年6月。遺骨というのは名ばかりで、白木の箱だけだ。それでも、楓にとっては昭和19年3月23日に見送ってから2年ぶりの再会だった。 葬儀は村葬で盛大に行われたが、入籍していなかったため、親族の席には座れず、一番後ろで読経を聞いた。 祭壇に3首を短冊に書いて供えた。 一年を経て還り給いし君の御魂 全身をもて抱き参らす 待ち詫びし御魂還る日近ければ 心粧いぬ悲しみに堪えて 我を遺きて遂にゆきしか我を遺きて 武士道とふものはかくも悲しき 葬儀が終わった後も、「ふと、便りはどうしたのかしら」と思い、「あぁ、そうか」と気づく日が続いたという。 「手紙を待つ暮らしが習慣となり、気がつくと何十年も経っていました」 別れ際の楓の一言に、ただうなずく外なかった。 ---------- 宮本 雅史(みやもと・まさふみ) 産経新聞社東京本社編集委員 1953年、和歌山県生まれ。現在、産経新聞社東京本社編集委員。慶應義塾大学法学部卒業後、産経新聞社入社。司法記者クラブキャップ、警視庁記者クラブキャップ、バンコク支局長、東京本社社会部次長、社会部編集委員、那覇支局長などを務める。90年、ハーバード大学国際問題研究所の訪問研究員。93年、ゼネコン汚職事件のスクープで日本新聞協会賞を受賞。特攻隊戦没者慰霊顕彰会評議員、神風特攻敷島隊五軍神愛媛県特攻戦没者奉賛会顧問。本部御殿手真武会宮本道場を主宰。主な著書に、『報道されない沖縄』『少年兵はなぜ故郷に火を放ったのか』(以上、KADOKAWA)、『「特攻」と遺族の戦後』『海の特攻「回天」』(以上、角川ソフィア文庫)、『爆買いされる日本の領土』(角川新書)、『歪んだ正義』『「電池が切れるまで」の仲間たち』(以上、角川文庫)、『電池が切れるまで』(角川つばさ文庫)、『国難の商人』(産経新聞出版)、共著に『領土消失』(角川新書)などがある。 ----------
産経新聞社東京本社編集委員 宮本 雅史