84歳の女性は「婚約者」の墓参りを続けていた…特攻隊員になった彼からの手紙に書かれていたこと
■小学校の同級生、婚約者、そして特攻隊員に… 女性は、第105振武隊の隊長として昭和20(1945)年4月22日、鹿児島県・知覧飛行場を出撃し、沖縄周辺海域で散華した林義則少尉(当時24歳、没後大尉)の婚約者だ。 小栗楓(戸籍上は楓子)。大正9(1920)年11月、岐阜県可児郡上之郷村(現・御嵩町)生まれ。林少尉は大正10年3月生まれで、二人は小学校の同級生だ。2年、3年、4年は同じクラスで、5年生の時に少尉が転校した。 少尉は岐阜師範学校二部を経て東京農業教育専門学校(現・筑波大学生物資源学類)に進むが、昭和17年に召集され、陸軍中部第六部隊(騎兵第3連隊)に入営。昭和20年4月5日付で第105振武隊の隊長となった。 楓が少尉と再会したのは特攻出撃の1年前の昭和19年3月23日。大刀洗陸軍飛行学校を卒業した少尉が、戦闘機の操縦士として訓練を受けるため満州に渡る挨拶に、楓が戸籍係として働いていた上之郷役場を訪れたのだ。 別れ際、懐かしさのあまり、 大空を御楯と翔ける雄姿にも いとけなき日の面影残る と書いた紙切れを渡した。 2日後、少尉から突然電報が届いた。 ---------- ワレトニツクキミサチアレヨシノリ ---------- 少尉の真意は分からなかったが、これをきっかけに1年間にわたる文通が始まる。手紙は軍隊調の簡潔な文面で、甘い言葉などは一言もなかった。 ■1年間続いた文通 楓は、文言などから少尉の居所を推測、地図に向き合い一緒に空想の旅を始めた。手紙のやりとりは頻繁になり、「いつしか、会話しているような文面に変わっていった。一緒に呼吸をして、一緒に暮らしているような気持ちになった」という。 求婚の言葉はなかった。だが、一度、手紙に ---------- ワイフと言うものは有難いものだなァ ---------- と書かれていた。 少尉から最後の葉書が届いたのは昭和20年4月末のことだ。 ---------- いよいよ今日出撃する。この期に及んで、何も言うことなし。よく尽くしてくれたお前の心を大切に持ってゆく。君ありて我れ幸せなりし。体を大切に静かに平和に暮らしてくれることを祈る。 ---------- 「この葉書を読んだ時は、これでもう最後だと思った。私が本当に生きたのは昭和十九年三月から二十年四月までの一年間でした」 ■戻ってきた指輪 林少尉の実家を通じて遺品が戻ってきたのは昭和20(1945)年4月末。冬用の軍服と時計にカメラ、満州で写した写真……。時計はいつも手に巻いて使った。時計の針の音が、少尉の鼓動のように聞こえた。 遺されし時計の刻む針の音は 脈拍のごと胸に伝い来 大事な遺品がある。百合の花が刻まれた銀製の指輪だ。少尉が送って来たシガレットケースのお返しに、楓は当時はめていた指輪を送っていた。それが遺品の軍服のポケットに入っていたのだ。百合の花は潰れていた。 「出撃するときに持って行ってくれればよかったのにと、悲しく思いました。百合の花は潰れてしまっていたけれど、この指輪があの人と一緒に動き、私の手元に戻って来たかと思うと、あの人のぬくもりが感じられます」