日高郁人&青木いつ希が4年4ヶ月ぶりに島根県に凱旋し『ご縁の国しまねツアー』を開催!絆の力で“父娘”となった2人が故郷の子どもたちに「夢への距離は遠いものじゃないって実感して欲しい」とメッセージ!
――改めてお2人のプロレスラーのルーツについてお聞きしたいと思います。まず、日高選手はなぜプロレスラーになろうと思ったのでしょうか 日高「私は“初代タイガーマスク”佐山サトル先生に憧れて子供の頃からプロレスラーになりたくて。父は昨年の夏に他界したんですが、当時は『お前みたいな小さい奴がなれるわけない』って頭ごなしにダメと言われて。なので1度就職をしたんですけど……こういう言い方をしたら誤解が生まれるかもしれないんですが、入社して4月2日に研修をして、寮に帰る電車でおじさんたちが疲れた顔で電車に乗ってるのを見たんですよ。それを見て、『このままだったら俺もこうなるんだな』って思って。それだったら悔いのない人生を送りたいと思ってもう1度プロレスラーを目指すことにしました。まあ、ぶっちゃけ今は僕が疲れて電車に乗るおじさんになってるんですけど(笑) プロレスラーを目指すとなったら、まずは親父の説得だと思って。このまま行ってもまたダメって言われるから体重を増やして身体をデカくしたら親父は納得するだろうと思って、パンクラスismの伊藤崇文とかと当時練習をしてて、20kgくらい体重を増やしてまた親父のところに行ったんですけど、また頭ごなしに『ダメ』と言われて。もう実家を離れるしか無いと思ってたら、兄貴が僕のいないところで親父に話してくれたみたいで。それで急に態度が変わって『頑張ってみろ』って。それで家族の理解が出来て、格闘探偵団バトラーツでプロレスラーとしてデビュー出来たと。これが1997年ですね。……これ、実に青木が生まれた年です(笑)」 ――安定した生活を捨ててまでプロレスラーになる覚悟には畏敬の念を抱きます 日高「僕が入ったのが大きい企業の系列会社だったんで、条件も良かったんです。それを1年ちょっとで辞めて、フリーターになりながら伊藤たちと毎日プロレスラーを目指して練習する生活になったんで、お金無いじゃないですか?(笑)『ああ、前のとこいたときにはあったんだけどなぁ』とか思ったりもしましたね。バトラーツに入ってからはバトラーツの寮に住ませてもらってたんで、住むところとちゃんこはあったんです。次の月にデビューするってことが決まったときに、石川雄規さんが『日高、お前も来月デビューだからプロレスラーだ。だから給料だ!』って初めて渡されたんですよ。それがね、〇万円だったんですよ(笑)でもね、過去現在で1番嬉しい〇万円でしたね。プロレスラーとして初めていただいたお金でしたから。これがね、『北の国から』だったらそのお金は使わないんですけど、ソッコーで使いましたね(笑)」 ――青木選手も子供の頃からプロレスラーになりたかったのでしょうか? 青木「私の場合はすごく特殊で、プロレスラーになる気は全く無かったんですよ。父親の影響でプロレスを見るのは好きだったんですけど、体育の授業が大嫌いで、運動が嫌いで、器械体操の授業は単位ギリギリまで休むくらい嫌いだったんです。ちょっと話が長くなっちゃうんですけど、大学の入学のために島根県から大阪に出たんです。アパートも借りて、あと数日で入学式……ってときに、父親が1枚書類を出し忘れてて大学の入学が取り消しになったんですよ(笑)大学に取り合ってみても結局ダメで、1年間フリーターになったんです。 私、大学もプロレスに関する小論文を書いてAO入試で受かったんです。そういうのもあって、『やらかしてしまった……』って気持ちになってた父親が『この子はプロレスのお手伝いをしたら元気になるかも』と思ったらしくて。そんな時にたまたま見つけたのが私が元いた団体で。父親がそのときの代表に事情をメールで話して『お手伝いをさせて元気を出させてあげてください』と勝手に頼んでいて。父親も大阪のことなんか知らないんで、本当にたまたま目についたその団体に連絡して私がそこに挨拶に行くことになってて。そんな話は知らなかったんで、私は(笑) それで、父親が勝手なことしたから謝りに行こうと思ってその団体の大会に行って代表の方とお話をして『学校はこれからもう1回頑張ろうと思ってます』と伝えたんですけど、『プロレスの方はどう?』って聞かれて。『運動も苦手というか嫌いだし出来ないのでスタッフならやりたいです。前は演劇部にいたので、音響とか照明なら出来ます。もし練習して出来るものならレフェリーとかやりたいです』と伝えたら、『それも良いけど、選手になってみないか?』と言われて。もう正直、1年間フリーになって自暴自棄だったんで……。 これはあんまり言っていいことじゃないですけど、『大きい怪我をしてもなにがあってもあんまり後悔しないだろう』って思ったんですよ。でも、初めての練習に参加したら、大学がダメになっちゃってからの1ヶ月くらいで久しぶりに楽しいと思えたんですよ。今思うと、そういう初心者の人を楽しませる用な練習メニューだったんですよね(笑)プロレスの試合でよく見る動きみたいのをいっぱいやらせてもらって(笑)それで1年間もあれば向き不向きも分かるだろうと思って楽しく練習生を始めたら、色んな方の手助けをいただいて。デビュー3ヶ月前にはREINA女子プロレスさんに出稽古に行かせていただいたりして、2017年4月になんにも出来ないけどデビューはしました。 大学の入学が取り消しになったことで全部の悪いものを削ぎ落としたかのようで、プロレス界に入ってからは人との出会いにメチャクチャ恵まれて。すごく色んな人が気にかけてくださって、女子プロレス団体さんに出させていただいたり、大阪にある団体さんとか、他にも『大阪大会のときは呼ぶね』って言っていただいたりとか。他にも、そこの各団体さんの先輩方にアドバイスを沢山頂いたり気にかけて頂いたり、大阪にいるタコヤキーダーさんとかがいっぱい練習を見てくださって。それで、最終的に日高さんに拾っていただいて、『私はプロレスラーです』って言って許される程度にしてもらいました(笑)」 ――“本物”のプロレスラーになったわけですね 青木「いや、まだなりかけですね(笑)」 ――それにしても数奇な運命での出会いですね 青木「ジョースター家もビックリ(笑)島根県の血の運命(さだめ)が引き合わせてますよ!」 日高「僕ね、この子と初めて会ったときに、僕と同じように目が細いから『これは石見地方の顔なんだ。そうか、この子は俺が責任持って育てないとダメだな』と思ったんです。そしたら、お父さんが横浜出身だったんですよ(笑)」 青木「しかも同じ石見地方の岩﨑永遠さんメッチャ目がデカいから(笑)たまたまウチらが目が細いだけですよ」 日高「なんなら俺の兄貴と母親も目ェデカいですからね」 青木「でも、結局それで親娘ばりに似てきたんで、“親娘タッグ”ってのが出来上がったんですよね」