《ジャスティンミラノ騎乗》日本ダービーに臨む戸崎圭太が明かした“天国の藤岡康太”への誓い「康太、ありがとう。お疲れさまでした」
悲劇を越えて、渾身の末脚で掴んだ涙の皐月賞。堂々たる本命として臨むダービーを前にしても、鞍上に気負いはない。亡き藤岡康太が育んだこの馬の力を信じて、ともに頂へ進むだけだ。 (初出:発売中のNumber1096号[決戦直前インタビュー]ジャスティンミラノ&戸崎圭太「2人でダービージョッキーに」より) 【写真】「誰からも愛された」藤岡康太20歳が初GI制覇で見せた爽やかな笑顔。「康太、康太!」友道師が叫んだジャスティンミラノ“涙の皐月賞”も見る(全18枚)
ジャスティンミラノ、デビュー3連勝
ゴールまで残り200m。戸崎圭太が騎乗するジャスティンミラノは、先に抜け出したジャンタルマンタルに3馬身ほどの差をつけられていた。 ――まずい、届くだろうか。 戸崎はそう思いながらも、騎乗馬を支えてきた後輩騎手の力を近くに感じ、渾身のアクションで追いつづけた。それに応え、ジャスティンミラノは猛然と末脚を伸ばす。 2024年4月14日、中山競馬場。第84回皐月賞の直線でのことだった。 「康太、康太!」 ジャスティンミラノを管理する友道康夫は、スタンドの調教師席で藤岡康太の名を叫んでいた。 ジャスティンミラノはゴールまで残り3完歩ほどのところで内のジャンタルマンタルをかわし、外のコスモキュランダの猛追も封じて、勝った。「史上稀に見る大混戦」と言われたクラシック三冠の初戦を、デビューから3連勝で制したのだ。勝ちタイムは1分57秒1のコースレコードだった。
「康太、ありがとう。お疲れさまでした」
検量室前に出てきた友道も、友道厩舎のスタッフも泣いていた。下馬して友道と抱き合った戸崎はゴーグルをつけたままで表情は窺えなかったが、涙を隠していたことは、ゴーグルを外して勝利騎手インタビューに応じたときにわかった。 「この馬は、藤岡康太ジョッキーが2週前、1週前と攻め馬をしてくれて、事細かく状態を教えてくれました。康太、ありがとう。お疲れさまでした、と伝えたいです」 藤岡は、皐月賞の前週、4月6日のレース中に落馬し、同10日に亡くなった。35歳の若さだった。彼は、ジャスティンミラノがデビューする前から、ずっと稽古をつけてきたのだ。 藤岡の事故以降、騎手たちが普通の精神状態でレースに臨めなくなったのか、翌日のレースでも複数の落馬事故があった。いつもとは違う雰囲気のなか、藤岡と戸崎、友道、そしてジャスティンミラノとの絆の強さを証明することになった、特別な皐月賞であった。
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