「城が大好き」気象キャスターが語る「城と名将」 「厳島の戦い」でみせた毛利元就の“気象を読む力”のすごさ
すっかり油断していた陶軍は驚きました。 『棚守房顕覚書(たなもりふさあきおぼえがき)』には、「陶、弘中ハ一矢モ射ズ、西山ヲサシテ引キ退ル」と、総崩れの様子が書かれています。狭い島内では陶軍のような大軍は動きづらく、混乱状態に陥りました。 形勢が不利になった陶晴賢は係留していた船で逃げることを考えて、島の西の大江浦(おおえのうら)という港に向かいます。しかし、船はそこにはありませんでした。村上海賊によって、あるいは暴風雨で破壊されてしまったのでしょうか。
追いこまれた陶晴賢は自害しました。勝利した元就はさらに勢力を拡大し、中国地方一の戦国大名になっていきます。 一方、陶晴賢は自害、大内氏は急速に衰退しました。のちに大内義長は自害させられ、大内氏は滅亡します。厳島の戦いが、それぞれの明暗を分けたといっても過言ではありません。 奇襲攻撃を10月1日にした理由 台風が元就の奇襲攻撃の味方をしたのは単なる偶然だったのでしょうか? 元就はこの時期に天気が荒れることを知っていて、好機を狙っていたのでしょうか?
あるいは、情報網を張りめぐらせていて、厳島より先に天気が変わる地域から、暴風雨の知らせを受けていた可能性もあります。 知将として知られる元就であれば、嵐の“サイン”に気づいていたかもしれません。 海では台風が近づく前から波が高くなります。高波(波浪)には、その場で吹く風による「風浪」と、台風などの影響で離れた海域から伝わってくる「うねり」があり、両者は波長や周期が違います。 海を熟知して水先案内人として収入を得ていた村上海賊の中には、うねりが届き始めた段階で、次第に天気が荒れることを察知した人がいたのではないかと想像が膨らみます。
そもそも奇襲攻撃を10月1日にした理由は、前夜が新月だったからという可能性があります。台風が来なくて晴れていたとしても、闇夜だったので、敵に気づかれないように厳島に上陸するには適していたのです。この点からも、元就あるいは村上海賊の天気や天体への関心の高さを感じます。 一方で、陶晴賢が天気にもっと意識を向けていて、その“サイン”に気づけていたら、歴史は変わっていたかもしれません。 ■台風はもともと「大風」