「城が大好き」気象キャスターが語る「城と名将」 「厳島の戦い」でみせた毛利元就の“気象を読む力”のすごさ
さらに、軍略に優れた元就は、狭い厳島であれば少ない軍勢でも勝機があるかもしれないと考えます。 元就は厳島を占拠して宮尾城を改修し、陶晴賢から元就に寝返った武将を置いて、挑発。ほかにも偽の噂を流したり書状を送ったり、陶晴賢を厳島におびき出す計略を巡らせたそうです。 そして1555(天文24)年9月21日、陶晴賢は約2万人の軍勢を率いて厳島に上陸し、宮尾城に攻め入りました。このとき毛利元就は不在でしたが、宮尾城を守っていた毛利軍は300~500人ほどだったといわれています。
陶軍約2万人に対して、毛利軍はその後の援軍を含めて約4000人。 両軍の人数については諸説あるものの、圧倒的な差があったことには変わりありません。幸いにもこのとき宮尾城の落城は免れましたが、毛利軍がこの「差」を覆すには、奇襲するしかないと考えたのではないでしょうか。 ■奇襲前夜、台風襲来か 奇襲(10月1日)の前夜である9月30日、いよいよ毛利元就率いる毛利軍が厳島に渡ろうとすると、雨の降り方が強まってきました。雨だけでなく風も強く吹き、雷が轟き、大荒れの天気となったようです。
この時期の雨というと、秋雨前線ということも考えられますが、嵐のような様子だったのであれば、台風が接近していたのではないでしょうか。 厳島の戦いがあった日は、新暦で1555年10月16日です。今使われている平年値では、7月から10月にかけてが日本への台風の接近数や上陸数が多い時期です。 例えば、2004(平成16)年に100人近い死者を出した台風23号、2017(平成29)年に「超大型」で静岡県に上陸した台風21号、2019(令和元)年に長野県の千曲川(ちくまがわ)が決壊した「令和元年東日本台風」は、10月に日本に大きな被害をもたらしました。10 月の台風襲来は十分にあり得る話です。
厳島の戦いに話を戻します。9月30日の夜、毛利軍は厳島に上陸しました。暴風雨によって視界が悪く、渡航は大変だったはずですが、敵に気づかれにくかったのは元就にとってラッキーです。 一方の陶晴賢は、こんな大荒れの天気の中、毛利軍が攻めてくることはないだろうと思っていたのでしょう。 いよいよ10月1日、毛利本軍と小早川隆景(こばやかわたかかげ)が率いる別働隊が陶軍の本陣を挟み撃ちにしました。海では、毛利が味方につけた村上海賊(水軍)が陶水軍を攻撃して、船を焼き払います。