低俗な内容が恥ずかしかった? かわら版の売子が顔を隠していた理由
読売が捕まらなかった理由
なぜ、読売たちは商売を続けられたのだろうか。 かわら版は、法的には禁止されていた。これは間違いない。だが、幕府は本気ではなかった。役人も、全力で彼らを追ったりしなかった。逃げれば、それで「黙認」されていたのである。ただし、あくまでも黙認なので、読売は堂々と顔をさらけ出すわけにはいかなかった。きっと、多くの役人たちは、読売たちがどこの誰か知っていたことだろう。ほとんど毎日、同じ町の同じ場所で、同じ時間に売っているわけである。人物の特定など、朝飯前に違いない。それでも、役人はよほどのことがない限り、「空気」を読んで読売を捕まえなかった。なかなか粋な計らいである。 しかし、そんな役人も、「幕府が絶対許さない内容」のかわら版については、厳しく取り締まらざるを得なかった。それは、幕政批判と、先にも触れた心中に関わるものである。心中はごく初期には見逃されていたが、すぐに禁止されてしまった。幕政批判と心中を取り扱ったかわら版は、もし販売が見付かれば、命の保証が一切なかったのである。心中に関する記事が絶対に許されなかった理由は、また改めて論じたい。 読売側としても、黙認し続けてもらうために、時にはかわら版に不自然な「幕府への賛辞」を書くなど、様々な努力を続けていた。そして、幕府が弱体化する、江戸時代最後の数年に至るまで、たとえ形式的だとしても、編笠で顔を隠し続けたのである。 なお、はじめに掲載した国周の絵は、江戸時代が終わった次の年に版行されたものである。そう、かわら版は、江戸時代が終わっても消えることがなかった。明治に入っても数年は存在した、などというレベルではない。少なくとも、明治20年代までは、普通に発行され、売られていたのである。 前回、かわら版に関する「辞書の説明」は、少々危ういことを述べた。その1点目は、かわら版という呼称の由来、そして2点目は、かわら版を「江戸時代だけのもの」としてしまっている点である(ただし、前回掲載したかわら版の写真は、全て江戸時代に発行されたものだ)。良識派から見ると、記事のカテゴリーにかかわらず、かわら版はやや低俗かも知れない。しかし、だからこその高いエンターテインメント性があった。それは、新聞がどんどん発行され始めた明治の世においても、十分に通用するほどの魅力を放っていたのである。 それでは、庶民の心を掴んだかわら版は、どのように情報を調達して作られていたのだろうか。江戸時代にも、記者に相当する人々が存在したのだろうか。次回は、こういった点を解明したい。 【連載】「かわら版」が伝える 江戸の大スクープ(大阪学院大学 経済学部 准教授 森田健司)