低俗な内容が恥ずかしかった? かわら版の売子が顔を隠していた理由
読売が顔を隠していた理由
初期のかわら版が、最もよく取り上げていた題材。それは、心中事件(創作含む)と好色物だった。だから、良識ある人々から、かわら版は大いに軽蔑された。だが、特に良識派でもない庶民たちに、かわら版は売れに売れた。ロマンティシズムとエロティシズム、これらを超えるエンターテインメントは、人類史上存在しないからである。 次に掲載したのは、1690(元禄3)年に上方(京坂地方)で出版された『人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)』の中に描かれた、「絵双紙売(えぞうしうり)」である。当時、かわら版は、絵双紙と呼ばれることもあった。つまり、絵双紙売とは、読売のことである。 彼らは二人組で、共に深い編笠を被って顔を隠している。いやらしい商品を売っていて、恥ずかしかったからだろうか。もちろん、そういった理由もあっただろう。 しかし、その最大の理由を問われれば、「読売が幕府に目を付けられていたから」と答えなくてはならない。1684(貞享1)年には、早くも読売の禁止令が出された。つまり、読売とかわら版は、誕生後間もなく、法に触れる存在となったのである。 江戸時代後期の天才絵師・葛飾北斎(1760~1849年)は、江戸の町で生きる様々な職業の人々を描いたが、その中に複数点、読売の絵を見付けることができる。次に掲載したのは、1809(文化6)年に出版された『北斎漫画(三編)』に描かれている、二人組の読売である。
絵柄の違いはあるが、100年以上前『人倫訓蒙図彙』に描かれた読売と、見た目はほとんど変わっていないようである。これらの絵からわかるように、読売は、用心のために、多くは二人一組で行動していたのだ。 しかし、である。顔を隠してはいるものの、このように読売が生き残っているということは、幕府はどこかの時点で、かわら版の禁止令を解いたのだろうか。とんでもない、それどころか幕府は1684(貞享1)年以降も、繰り返し新たな禁止令を出し続けていたのである。さらに1721(享保7)年には、印刷物を発行する際に「責任者を明示すること」を、幕府は義務付けた。「奥付」の誕生である。絵に関しても、内容を事前に届け出て、許可が出ない限り、版行ができなくなった。 そのようなお達しにもかかわらず、かわら版に関しては、責任者の明記もせず、許可も取らず、発行が続けられた。これはもう、正真正銘「違法出版物」である。そして、敵討、天災地変、妖怪、珍談・奇談など、かわら版の扱う題材はどんどん増えていく。読売はと言うと、そんなかわら版の束を抱えて、毎日のように町中に現われた。彼らは、自慢のダミ声で、節を付けて記事の一部を読んだ。それに、大人も子どもも、目を輝かして群がる。いつだって、かわら版は飛ぶように売れたのだ。