低俗な内容が恥ずかしかった? かわら版の売子が顔を隠していた理由
一時期下火だった時代劇が、ここ数年、復調の兆しを見せている。時代劇の愛好家として、これほど嬉しいことはない。 ところで、その時代劇では、視聴者が状況を飲み込みやすくするために、あえて歴史的事実と異なる描写をする場合と、逆に、史実がよくわからないから(あるいは史実の誤解によって)、フィクションを構築する場合があるようだ。 江戸時代なのに、居酒屋にテーブルがあったり、町奉行所に表札があったりするのは、前者の代表的な例である。それに対して、時代劇におけるかわら版の描き方は、後者の典型と言えるだろう。 時代劇においては、大事件の発生後などに、読売(かわら版の販売者)が町に現われるシーンが頻繁に見られる。彼は、頭に手拭いを載せて、「てぇへんだ!」とか「大事件だよ!」とか叫んで、町の人たちの注目を惹こうとする。片手に売り物のかわら版、もう一方に一本箸を持っていることも多い。 その姿は、豊原国周(とよはらくにちか・1835~1900年)による1868(慶応4)年の錦絵「当世流行トコトンヤレぶし」に描かれた人物のような感じである。 それでは、江戸時代においては、実際にこのような姿格好の読売が、かわら版を売っていたのだろうか。 幕末最後の数年を除くと、答えは「ノー」となる。もし、江戸時代の真っ只中に、このような読売が町に出現したとしたら、一瞬で同心に捕縛されたことだろう。 江戸時代に、言論の自由はほとんどなかった。それにもかかわらず、残されたかわら版の内容は、相当に奔放なのである。 なぜ、そのようなことが可能となっただろうか。この理由にこそ、かわら版の面白さの秘密が潜んでいる。
かわら版第1号は「官製」
読売の実態を知るためにも、まずはかわら版自体の歴史について概観しておきたい。 歴史上、初めて発行されたかわら版とされているのは、大坂夏の陣を報じた二枚、「大坂卯年図」と「大坂安部之合戦之図」である。どちらが先か、までは判明していないが、共に1615(慶長20)年に出たものと考えられている。 両方とも、大坂夏の陣において、「幕府軍が、圧倒的な力で豊臣軍を滅ぼす様子」を、絵図で見せるものである。記事のようなものは、一切ない。そして、現代人からすると、余り見所がなく、面白さを見出せない内容だ。 しかし、そういった感覚は、現代人だけでなく、当時の人々も一緒だったのかも知れない。なぜなら、両方ともに「官製かわら版」とでも表現できるもので、幕府が主導して発行したものだからである。現代で言えば、官房長官の発表をそのまま、政府が号外として発行したようなものだろう。 このようなかわら版が出されたのは、徳川幕府の磐石さと、かつての覇者である豊臣家がもうこの世にないことを、庶民に知らしめるためだった。つまり、先の2枚は、「現代人が思い浮かべるかわら版=私製かわら版」の祖とは、少々言い難いものである。 それでは、「官製かわら版」ではなく、「私製かわら版」はいつ頃生まれたのだろうか。 文献的にさかのぼると、『天和笑委集(てんなしょういしゅう)』に読売、そしてかわら版に関する描写を見付けることができる。この書は1682~1683(天和2~3)年に頻発した、江戸の大火を記録したものだ。 この辺りの時期から、我々がかわら版と呼ぶ情報媒体は始まったのである。