「徳川四天王」を先祖に持つ「超エリート将軍」は、なぜ東條英機打倒に奔走したか
関東軍参謀長、東條英機。彼が意図したのは、軍隊の仕組みを無視した参謀長の直接指揮だった。参謀長の役割は軍司令官を補佐、助言することであり、もちろん麾下(きか)部隊の指揮権など有していない。ところが東條は関東軍司令官の名を借りて、自ら関東軍蒙彊派遣部隊(独混1旅もその指揮下)を直率。これを「東條兵団」と称したのだった。まさしく参謀の専横、本来ならば軍法会議ものの越権行為だ。だが当時の関東軍を牛耳る東條に楯突く者はおらず、彼は思いのままに蒙彊派遣部隊を指揮する。その過程で酒井中将(昭和12年8月進級)は、東條の能力に対する疑問と不信を強めることとなった。 集中使用してこそ効果がある独混1旅を東條は分散させ、他部隊の支援に当てた。攻撃の尖兵となった支隊への増援として、歩兵、戦車、砲兵、工兵を分派させ、酒井の手元に残されたのはわずか工兵1個小隊。彼が激怒したのも無理はない。作戦終了まで機甲部隊として有機的に運用されることのなかった独混1旅は、東條のおかげでその実力を疑問視されることとなり、昭和13(1938)年8月、解隊の憂き目に遭う。酒井も同年留守第7師団長に転じ、翌年には第109師団長に補せられるが、わずか3カ月後に参謀本部付となり、翌15(1940)年には予備役に編入される。恩賜の銀時計と軍刀を持つ将軍としては、いささか寂しいキャリアであった。 現役を退いた酒井は、用兵思想や戦争指導の研究に没頭する。しかし、この間にも、首相兼陸軍大臣となり、さらには陸軍参謀総長も兼任して、絶大なる権力を握った東條英機の施策に対する不満と苛立ちは高まるばかり。2度の首相経験がある東條の政敵、近衛文麿公爵に接近。近衛を通じた影響力を得て、ひそかに和平運動に踏み込んでいく。酒井の願いがかなえられるまで、そう時間はかからなかった。昭和19年7月18日、サイパン陥落を受けて、内閣は総辞職。東條自身も退役し、予備役大将となった。けれども、倒閣運動に関わった酒井も無傷ではすまない。東條退陣の直後に召集解除され、彼もまた退役軍人に戻ったのである。