日本海軍「最強空母」、じつは「巨大客船」を”改造”して作っていた…! その「ヤバい開発秘話」と「知られざる物語」
空母改造期間はなんと「6ヵ月」、最短で「4ヵ月」
とはいえ、改造空母誕生までには経済的、技術的なハードルがいくつもあった。 建造費に対し日本郵船は、全額補助金を希望したが、これは不可能であり、結局いろいろな方法がとられた。航路補助金の増額、主・補機などの経費負担、建造所での便宜……。一方海軍の要求も徹底した。ボイラー室区画の舷側の防御用として、外板に厚さ25ミリのDS鋼(軍艦のみに使用)を張ったり、その内方には重油タンクを設けて、直接ボイラー室から外板まで達しないこと、ボイラー室とエンジンルームをいずれも複数とすることなどである。 最も大切だったのは、商船である2船を、有事の際に6カ月(場合によっては4カ月)で空母になし得ることであった。速力については、26ノット、やむを得ぬ場合は25・5ノットを必要とした海軍と、24ノットが経済上の限度とした日本商船との間では、ボイラーを海軍式に近い大力量のものとして、それを平時は馬力を下げて使うこととした。軍用のために50%近い馬力に余裕を持たせ、25・5ノットの空母となる。これらに対する製造費用の増加は、すべて海軍の負担となった。
魚雷攻撃にも沈まず終戦迎える
両船は1940年の東京オリンピックに間に合うよう計画されたが、時期は遅れ、起工に至ったのは「橿原丸」が1939年3月、「出雲丸」が同年11月だった。建造は順調に進んでいたが、予期せぬ事態が勃発した。第二次世界大戦がはじまり、それを受けて米国で1940年7月に両洋艦隊法が成立したことだった。これは18隻もの空母の新造が盛り込まれており、同時期の日本海軍が建造を予定していた3隻では、到底かなうものではなかった。 そこで急きょ「橿原丸」「出雲丸」など3隻に白羽の矢が立てられ、商船として竣工前に空母化することが決まった。この決定がなされた1940年10月当時、両船は上甲板まで建造が進んだ状況だった。両船は1941年6月に相次いで進水し、「橿原丸」は1942年5月に「隼鷹」として、「出雲丸」は同年7月に「飛鷹」として竣工した。技術的に見れば、鋲接法、区画法、可燃物使用の範囲などで純然たる軍艦とはいえないが、太平洋戦争では主力空母として活躍した。なお、両船とも煙突が外方に傾いているという大きな特徴があったが、戦後30年ほどたってアメリカの大空母「J・F・ケネディ」が同じ方法をとったのは興味深い。 「飛鷹」は1944年6月のマリアナ沖海戦で攻撃を受け不帰の客となった。一方、「隼鷹」は完成翌月の1942年6月、ミッドウェー作戦と同時に実施されたアリューシャン作戦に、第四航空戦隊の一艦として出動した。悪天候の中で搭載機を飛ばし戦闘に参加した実績は注目に値する。この後、いくつもの作戦に従事し、攻撃を受けながらも沈まず、行動可能な空母として終戦を迎えた。
潮書房光人新社