君たちは人生、何年と思って生きたのか?”最強”戦闘機『紫電改』と海に消えた若者へ~人生100年時代からの質問
海を一望する小さな『紫電改展示館』を訪ね、こう思った。「人生100年時代なんて、いつから言い始めたんだろう?」。そして太平洋戦争で散った6人の戦闘機乗りの若者に「君たちは人生、何年と思って生きたのか?」と問いかけた。”人生が何年”だなんて、この若者たちは考えただろうか。 展示館(愛媛県愛南町)では、日本海軍最後で最強の戦闘機といわれる紫電改の実物を日本で唯一、見ることができる。この紫電改は具体的な物語と共にそこにある。単なるモノではなく、実話そのものなのだ。 終戦間際の夏、21機の紫電改が豊後水道上空で、約200機の米軍機と闘った。6機の紫電改が帰ってこなかった。鴛淵孝海軍大尉(25)、武藤金義海軍少尉(29)、初島二郎海軍上飛曹(22)、米田伸也海軍上飛曹(21)、溝口憲心一飛曹(21)、今井進海軍二飛曹(20)の6人が操縦していた。 その日、戦闘機がリアス式海岸の切り立った稜線を見事にすり抜け、まるで海に着陸するかのように、着水した...という地元の目撃情報があった。墜落ではなったのだ。6人のうちの誰かが、最後まで生きて操縦していた可能性があると地元の人はいう。後に引き揚げられた紫電改の4枚のプロペラが、どれも垂直に折れ曲がっているのは、回転するプロペラが海水の抵抗を受けて曲がった”着水”の証拠だ。 その搭乗員は生きてもう一度、戦おうと思っていた可能性すらある、私は思った。戦争を美談にするつもりはない。しかし、心に浮かんだ「君たちは人生、何年と思って生きていたのか」という問いが消えない。”死ぬまで生きる”と、「人生100年時代をどう生きるか」とは、全く異なる世界観ではないか。いつから人間は人生をマニュアル化し始めたのだろう。 【オピニオン室 三谷隆司】
兵器と人間が具体的な実話で訴える
戦闘機は戦争の道具だ。報道する時、取り上げ方が難しい。一般的には、平和を考えるきっかけや教材として取り上げることが多いのではないか。すると結論は「平和の大切さを知った」など一般論になりがちだ。少なくとも私の場合はそうだった。 ところが今回は違った。兵器と人間、物語が一体となって語りかけてきたからだ。主人公である人間は、それまで全く知らなかった若い”兵隊さん”だった。首相や大将、天才作戦参謀...とかではない。 物語はこうだ。終戦間際の1945年7月24日、高知県沖のアメリカ機動部隊から出撃した約200機の艦載機が呉軍港を攻撃した。その帰り道を待ち伏せし、迎撃したのが鴛淵大尉が指揮する21機の紫電改だ。16機を撃墜したが、6機が帰ってこなかった。展示された紫電改は6機のうちの1機であることが分かっている。操縦していたのは20歳から29歳までの6人の誰かだ。 兵器である戦闘機と人間が、ここまで個別の具体的なストーリーを持って、見る人に訴えてくる展示物は初めてだった。「太平洋戦争で実戦経験のある戦闘機の経歴が、これだけ具体的に判明している例は、恐らく他にない」(展示館関係者)。