ヨーロッパ哲学最大の難問を解明したフッサールの「不運」…いまだに「180度違う解釈」ばかりされている原因は「あの愛弟子の学問的裏切り」だった
ヨーロッパ哲学の最大の難問=認識論の謎を解明した20世紀哲学の最高峰といわれるフッサール現象学は、その根本から無理解と大きな誤解にさらされたまま現在に至っている。 【もっと読む】「ヨーロッパ哲学最大の難問」である「認識論」とは何なのか なぜフッサール現象学がこれほど長く誤解されてきたのか、これについて読者は自然な疑問をもつと思う。ここで、最小限必要なことを説明しよう。 (本記事は、竹田青嗣+荒井訓『超解読!はじめてのフッサール『イデーン』』(12月26日)から抜粋・編集したものです。)
フッサールの不運
何より不運だったのは、フッサールが「君と私こそが現象学だ」というまでに嘱望した直弟子のハイデガーが、じつのところフッサール現象学の根本動機を受けとらず、それを自分の「存在論哲学」へと変形したことである。また、にもかかわらずハイデガーはフッサールの第一の後継者とされ、ハイデガー存在論がフッサール現象学の哲学的深化と見なされたことである。 ハイデガーの現象学理解にはたいへん奇異な点がある。 ハイデガーはその出世作と言える『存在と時間』をフッサールに献呈した。しかしフッサールにとってこの愛弟子の処女作はきわめて微妙な意味をもっていた。なぜなら、ハイデガーはフッサール現象学の本質観取の方法については、その師以上の見事な仕方でこれを自身の実存論哲学の基礎方法として適用しているのだが、一方で、現象学の根本テーマである認識問題の解明という動機については、これを完全に投げ捨てているからである。 『存在と時間』には二つの中心主題がある。 一つは、人間の実存、つまり人間独自の存在の仕方の本質を、客観的な仕方ではなく、まさしく本質観取の方法をもちいて把握すること。この主題については、ハイデガー哲学は比類のない仕事を果たしている。それはキルケゴールに発する現代実存哲学の大きな達成であるといえる。われわれはここに、現象学に由来する本質観取という方法の見事な適用の実例を見ることができる(詳細は竹田『ハイデガー入門』、講談社学術文庫参照)。 しかし、『存在と時間』のもう一つの主題は、「存在の意味」あるいは「存在の真理」の探究にある。ハイデガーはここでマニフェストする。これまで哲学は「存在がどういうものか」については問い続けてきた。しかし「そもそも何かが存在するとはどういうことか」については誰も問うてこなかった、自分がこれをはじめて哲学の問いとして開始する、と。 このハイデガー哲学の発問は同時代の哲学者たちに大きな衝撃を与えた。しかしフッサールから見れば、ハイデガーの存在論哲学は普遍認識の方法をもたない「形而上学」といえるものだった。フッサールとハイデガーの哲学は、その根本主題において決して相容れない性格をもち、ついに『ブリタニカ草稿』でその対立と訣別が決定的なものとなる【*】。 【*イギリス『ブリタニカ百科事典』の求めで「現象学」の項目を引き受けたフッサールは、ハイデガーの協力を得つつ執筆を進めるが、この過程で、二人の哲学的立場の違いは完全に明らかになる。】