創業57年、父は満身創痍で鍋を振り、倒れ込む…。あの城咲仁が「実家の町中華」で働く“切実な事情”とは?
元カリスマホストで、タレントの城咲仁さんの実家が町中華を営んでいることをご存じだろうか。 【画像12枚】「丸鶴」名物のチャーハンや、鍋を振る城咲さんの様子 東京・板橋区大山にある「丸鶴」である。1966年創業で、この秋に58年を迎える老舗だ。店主は岡山実さん。 チャーハンがとにかく人気で、営業中に行列が途切れることはない。都内でチャーハンの旨い店と言われたら間違いなく名前の挙がってくるお店だ。 なぜ城咲さんが今、実家の町中華で働いているのか。城咲さんと、ご両親のライフヒストリーを伺った。
■調理はほぼ父のワンオペの人気店 城咲さんはそんな「丸鶴」のひとり息子として生まれた。 幼い頃から繁盛店で、平日はほとんど地元のお客さんが多かったが、週末の金曜日、土曜日は宴会が多く、各地からお客さんが集まっていた。近所に出前も行っていて、従業員3人がバイクと自転車を使って近所に出前をしていた。 【画像12枚】しっとりチャーハンの聖地として知られる板橋区大山にある「丸鶴」。名物のチャーハンと、鍋を振る城咲さんの様子
「メディアに出るようなお店ではなかったですが、口コミで広がっていたように思います。私の友達もよく家族で食べに来ていましたし、平日は部活帰りにみんなで『丸鶴』に集まっていました。陸上部や柔道部などみんな『丸鶴』に集合して、うちのオヤジがタダで食べさせていました」(城咲さん) かつてはメニューがとてつもない数だったが、調理はほとんど父のワンオペで、適宜母がフォローするという形だった。 「当時からこれだけ人に愛されているというのは凄いなと思って見ていました。しかし一方で、飲食店の厳しさを子供ながらに感じていました。オヤジは営業中にはなるべく包丁を使うなと言っている人で、やれることはすべて事前の仕込みで行います。営業が終わってからすぐに次の日の仕込みを始め、翌日も朝早くから仕込みをしていました」(城咲さん)
その中で、飲食店には当然売り上げの浮き沈みがある。一生懸命仕込みをしていてもすべてが売り切れるわけではない。営業が終わった後に余った食材を捨てているのを見るのが本当に辛かった。 バブル時代には、宴会がダブルヘッダーで行われることもしばしば。フル回転でお店を回していたが、バブル崩壊とともに、味が落ちたわけでもないのに客足は遠のいていった。 「小学生ぐらいまではこの店は自分が継ぐんだとなんとなく思っていましたが、そのうち自我が芽生え始めて、少しずつ心が離れていきました。うちの両親は働くのが好きで、1週間のうち半日ぐらいしか休んでいませんでした。ゴールデンウィークやお盆も営業していて、自分がいざ大人になって家族を持った時にこの生活がしたいかと思うと、それは違うなと思ったんです。尊敬はしていたけどその人生は選べなかった」(城咲さん)