【本日最終回】「光る君へ」が描かなかった「刀伊の入寇」の背景と藤原頼通のその後
12月15日の放送で最終回を迎える「光る君へ」。1週前の12月8日に放送された第47回では、吉高由里子演じるまひろ(紫式部)が大宰府で「刀伊(とい)の入寇」に巻き込まれて旧知の渡来人・周明を失う場面が描かれた。都では、藤原道長の後を継いだ嫡男・藤原頼通は、日々の政(まつりごと)に苦心していた。 刀伊の入寇とは何だったのか。そして「光る君へ」の後、頼通の治世はどうなっていくのか。いずれも、『出来事と文化が同時にわかる 平安時代』(監修 伊藤賀一/編集 かみゆ歴史編集部)が詳しく解説している。本を引用する形で紹介したい。 *** 「刀伊の入寇」は平安時代、唯一最大の対外危機であった。1919(寛仁3)年3月、対馬・壱岐が刀伊の兵船50艘(約3000人)の襲撃を受け、壱岐守・藤原理忠をはじめ、島の役人や住民が虐殺された。その後、賊船は北九州沿岸を次々と襲撃。山野をかけめぐり、牛馬を殺し、老人や子どもを斬殺し、4000~5000人もの成人男女を連れ去ったという。 「刀伊」は中国東北部一帯(のちの満洲)に勢力を張るツングース系の女真(じょしん)という精強な一族で、朝鮮半島の高麗で「蛮族」を意味する「doi」を漢字で表したものである。10世紀、女真は宋との貿易で発展したが、契丹(きったん)が立てた遼の勢力拡大により貿易路を絶たれた。さらに、遼が朝鮮半島へ侵攻を開始したため、その混乱に乗じて女真は朝鮮半島の東岸を荒らすようになり、その一部が北九州へ進出したと考えられている。 刀伊襲来の報は、すぐに大宰府に伝えられた。対応にあたったのは、大宰権帥(ごんのそち)として赴任していた藤原隆家である。隆家は道長と氏長者の地位を争った伊周(これちか)の同母弟で、道長の権勢に押されて失脚した人物であった。 剛毅で気骨のある隆家は、4月上旬に刀伊軍が博多の警固所を襲撃すると、隆家は自ら指揮をとり、府官や豪族を動員して防衛にあたらせた。日本軍は得意の騎馬戦法で刀伊軍を翻弄し、捕虜の逃走を助けた。やがて、強風で刀伊軍の活動が停滞すると、日本軍は兵船を整えて反撃を開始。各地で激戦を繰り広げ、1週間ほどで刀伊を撃退した。